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「正しさ」について Part 3

4、現実の世の中では、「正しいか、間違っているか」ということよりも、できるだけ早い問題の解決や、より良い目的の達成や、正しい思考訓練が大切であったり、それから白黒つけない曖昧なままの状態の方がよいものも、意外と多いものである

 第四には、ここからが本題になるのですが、これは、ある意味で学問の矛盾そのものと言ってよいような内容になるのですが、実は時折、「学者馬鹿」というような言い回しがあるように(別にすべての学者がおかしいというような意味ではありませんが)、現実の世の中では、「それが正しいか、間違っているか」ということよりも、「いかにして、できるだけ早く、多くの人々の損害や不幸を減らすか」とか、「いかにして、できるだけ早く、多くの人々の利益や幸福に貢献するか」ということの方が、ずっと重要なこともあるので、時折、自分の置かれた客観的な状況を見直す必要があるということです。

 大まかな内容としては、以下のような四つのものになります。

 

①世の中には、完璧な正しさを求めるよりも、早急の対処や解決や改善が必要とされるようなケースもある

 まず第一には、これは単純で、要するに「それが正しいか否か」ということよりも、「とにかく早く、病人や怪我人を治さなくてはならない」とか、「とにかく早く損失を減らして、利益を出さなくてはならない」とか、「とにかく、いち早く、今ある問題が解決できればよい」とか、「とにかく、少しでも早く簡単に、楽しい幸せな豊かな状態になりたい」というような状況のケースになります。

 この場合にも当然、ある程度の正しさは必要なのですが、それよりも、できるだけ早く、たとえ応急処置であっても、何らかの効果的な手段によって、危難を脱して、成果を上げなくてはならないということです。

 ただし、この場合には、あくまで応急処置的な手段であるということは絶対に忘れずに、ある程度、状況が落ち着いた段階では、根本的な対策をとることが、とても重要になります。

 

②現在の学校教育を受けると、「それが、正解か否か」ということにのみ、ものすごく関心が行きがちなのだが、「すぐに仕事ができる」とか、「一人前の民主主義国の市民の生き方ができる」とか、「優れた人間性を身につける」というような学校教育のそもそもの目的に関しては、もっと重要視される必要がある

 第二には、これは、ちょっと複雑な話になるのですが、現在の学校制度を見ていると、多くの人々が、あまりにも「正しいか、間違っているか」ということにのみ注意が行き過ぎるような思考訓練や行動訓練が多過ぎて、そもそもの学校がある理由、つまり、「社会に出て、すぐに仕事ができるか」とか、「就職や転職の際に、すぐに必要とされるような優秀な人材に育っているか」とか、「経済的にも精神的にも、末永く最も幸福な自立した生活が送れるような、一人前の民主主義国の市民にふさわしい自分づくりができているか」とか、「末永く自分の幸せと周りの人々の幸せを両立できるような、バランス豊かな優れた人間に育っているか」というような基準が、かなり抜け落ちてしまっているようなところがあるのです。

 ですから学校という所では、何らかの知識や技能の修得の判定のために、「正しいか、間違っているか」というような二つの基準で、学生の能力を判定しなくてはならないようなところがあることまでは、確かによく分かるのですが、ただ、実際の世の中では、それだけでは生きてゆけないようなところもあるので、もう少し実社会のニーズに対応した、というか、実社会で、すぐに使えるような、一人前の市民の考え方や生き方が身に付くような学校教育が必要なのではないか、というように感じております。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年11月8日 9:08 PM, 知恵、正しさ



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