Light Symbol

多くの国民が、末永く、平和で繁栄した、幸福な国づくりを目指せるような政治家や政党を選ぶための知恵について Part 8

③特に都会では、小さな規模でよいから、それぞれの人々が、必ず、何らかの理想や楽しみを共有するようなコミュニティーに属して、政治的な内容も含む、いろいろな活動を行うようにしていれば、それだけで、現代日本の政治状況は、かなり改善されるようなところがある

 第三には、歴史的には、これが、最も難しいことになるのですが、実は、人間の心の中には、妙な性質があって、遠目に、大勢の人々に囲まれている所や、テレビや舞台のような所に出ているのを、何度も見ていると、何となく、「その人は、ものすごく偉い人なのかな」、などと、だんだん、深く思い込むようになってゆき、気がつくと、同じ人間であるのに、「自分とは、全然、違う、ものすごい大天才のような人なのかな」、とか、「生まれが、全然、違う、ものすごい偉い人なのかな」、などと、結構、真剣に心から思い込んでいってしまうようなところがあるのです。

 そうすると、いったい、どのようなことが起こるのか、というと、これは、第三者のような立場で見ていると、とても不思議な光景に見えるのですが、一方では、ものすごく偉くなったと考えられている、本当は、「たくさんの人々の直接の意見や考えを聞いてみたい」、とか、「直接、話し合ってみたい」、と思っている、その当事者のような人物と、それから、「そういう偉い人は、全然、自分のことなんて、見てくれないし、当然、話も聞いてくれないだろう」、などと深く信じ込んでいる、大勢の人々の間の精神的なギャップ、というか、精神的な距離というのが、だんだん、時間と共に、ものすごく大きくなってゆくような傾向があるのです。

 それが、まだ数年程度のものなら、大したことはないのですが、例えば、それが、数十年とか、場合によっては、二代、三代と、何世代も続いたものとなると、はっきり言うと、「何だか、その人とは、生まれも育ちも、全然、違うような、全く別の人種や身分のような存在なのかな・・・」、などと錯覚してしまうような人も、結構、いたりするものなのですが、私が思うには、これは、はっきり言って、人間の意識が生み出す、大きな誤解以外の何物でもないのではないか、ということなのです。

 さて、そうした観点から、今日の政治情勢というものを見てみると、例えば、 その政治家の地元の人々からすると、「ああ、高校の時、一緒だった、○○ちゃんが、最近は、偉くなって、○○大臣になってるや!」、とか、「あいつは、昔、俺の後輩で、一緒に酒を飲んだり、大騒ぎしたんだよな~」、などと、わりと普通の人目線で見ていたりするものなのですが、ところが、それが、マスコミを通した、新聞やテレビ目線の人々の目から見ると、「あの総理大臣は、今度こそ、何か、凄いことをやってくれるのだろうか?」、とか、「あの大臣は、また、失言してしまったらしい」、とか、「大臣なら、これくらい出来て、当然なのに・・・」、などというように、もう完全に、まるで絶対に失敗してはならない、プロ中のプロでなくてはならないような扱いを受けるようになることが多いようなのです。

 確かに、一昔前の日本であれば、強大な軍隊や特高(今日の秘密警察)で、完全防備された、そう簡単には、絶対に権力を手放そうとしないような大権力者が、政治をギューッと握っていて、それに対して、力のないマスコミや一般庶民が、一部で、声にもならないような、か細い声で、細々と抵抗し続ける、というような社会の図式になっていた、と思えるのですが、ただ、戦後、ここ数十年の日本では、そんな時代は、とっくの昔に過ぎ去っていて、政治家が、ちょっと失言したり、失敗しただけで、ワーッと、マスコミも世論もまくしたてて、もうあっと言う間に、少し前の超人気大臣も議員も消え去る、とか、少し前の、ものすごく期待された内閣も、瞬く間に解散してしまう、というような時代なので、はっきり言うと、現代の多くの日本人の率直な状況としては、もう十分に、政府叩きも、政治家叩きも、役人叩きもやって、戦前、戦中の、とんでもない大軍閥政府に対する無念や怨念は、はらしたようなところがあるのではないか、ということなのです。

※潜在意識の奥に隠れてはいますが、旧大日本帝国政府に対する無念や怨念のような意識は、何も、中国や朝鮮の人々だけにあるのではなく、現代日本人の心の奥にも、結構、根強くあったように思われます。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年12月11日 7:02 AM, 政治



«

»

おすすめ記事

過去の記事