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イエスについて Part 30

結局、パウロ的な信仰観に関しては、そもそも、彼の師であるイエス自身が、それほど強く「信仰」にこだわる人物でなかったことと、あまり強く「信仰」にこだわると、多くの人々の自由性や自然な幸福感を損なうことが多いので、本当は、かなり問題が多かったのではないだろうか

 このように、パウロ的な信仰観に関しては、まず第一には、そもそも、彼の師であった、イエスという人物自身が、それほど強く、「信仰」、「信仰」、というような人物ではなかったのではないか、ということと、それから、第二には、そのような形で、誰でもかんでも、片っ端から、「信仰」、「信仰」、と言って、何でも問題が片付いたような考え方や行動をしていると、現実には、多くの人々の自由性や自然な幸福感を、大きく制限してしまうようなところがあるので、本当は、非常に問題があったのではないか、ということなのです。

 それゆえ、近現代にかけてのキリスト教圏では、新教の成立や、それ以降の民主化や自由化の進展や、あるいは、ルネッサンス以降の、さまざまな学問や科学技術の発展につれて、こうした古代から中世まで、長らく続いてきた、古いキリスト教的な信仰観が、実質的に、大きく崩れてゆき、その後のキリスト教圏の国々では、多くの人々が、「キリスト教的な信仰は持っているけれども、それと同時に、個人の自由や政治的な自由も、非常に大切なものであると考えている」、とか、「キリスト教的な信仰は持っているけれども、他の宗教宗派の人々に対しても、できるだけ寛容な態度をとるように心掛けている」、とか、「キリスト教的な信仰は持っているけれども、時々、それと相反する立場になることもある、学問や言論の自由も、非常に大切なものであると考えている」、というようなスタンスに、大きく変化するようになっていった、ということなのです。

 

今後、キリスト教圏では、単純至極なパウロ的な信仰観ではなく、神やイエスを、より身近な愛の存在として、感じたり、また、多くの人々が、霊的にも、物質的にも、できるだけ最高の幸福を享受することを目指してゆくような、「ニュー・スピリチュアリズム」的な概念が、だんだん、大きく広がるようになってゆく

 それでは、そうした近現代の後の、今後の未来のキリスト教は、いったい、どういう方向に向かってゆくのか、というと、おそらく、私が、推測するには、それぞれの人々が、それぞれの人々なりに、もっと気軽に、神やイエスを感じ、そうした神やイエスの考えに従って、生きてゆくような、スピリチュアル(霊的)な概念と、多くの人々が、この世的にも、最も幸福な人生を生きてゆく、というような、「世俗主義」、もしくは、「物質主義」を、うまくミックスした形の、「ニュー・スピリチュアリズム」的な概念というのが、だんだん、多くの人々の間で受け入れられてゆくようになるのではないか、というように考えております。

 そして、その際には、単に「強く信じればいい」というような古い信仰観ではなくて、神やイエスの存在は、信じているけれども、ただ、それは、単に強く信じるというよりかは、「自分は、神やイエスの愛を、いつでも身近に感じられる」、とか、「自分にとって、非常に身近な愛の存在を、ただ純粋に愛している」、とか、「単純に、その存在のことが、大好きだから、愛している」、というような形の、「愛」という感情を中心に打ち出した、より自然な信仰観を持った方が、私は、ずっと良いのではないか、というように、率直に感じる次第です。

 このように、今後の大きな霊的な潮流としては、霊的にも、物質的にも、最高の幸福の享受を目指してゆくような、「ニュー・スピリチュアリズム」的な概念が、だんだん、多くの人々の間で、わりと自然な形で受け入れられてゆくようになってゆくのではないか、というように、私は考えております。

 

 続く・・・

 

 

 追伸

 結局、現在の地球上の社会を見てみると、多くの人々に、あまり真剣に深く調べられたり、考えてほしくないようなものに限って、「これは、昔からの伝統なので、大切に、そのままにしておいてほしい」、とか、「とにかく、凄い、偉いものなのだと受け入れてほしい」、とか、「あれこれ考えずに、すぐに信じてほしい」、とか、「言われた通りに、素直に従ってほしい」、というようなスタンスがとられがちである、ということなのです。

 ですから、はっきり言うと、約2000年前に成立したと言われるキリスト教に関しても、これと、ほぼ同じようなことが言えるのではないか、ということなのですが、それゆえ、私は、「たとえ、昔からの伝統と呼ばれるものであっても、現在の多くの人々の利益や幸福の観点から、常にゼロベースで考え直す習慣を持つ」、とか、「宗教や国家が、多くの人々に対して、無前提に素晴らしいものだと認めさせようとするものに関しては、常に、一定の疑問をもって、のぞみ、必ず、自分の頭で、よく考えて、良いと思ったもののみ受け入れるようにする」、とか、「すぐに信仰なんて、乱暴なことは言わないで、常に物事は、必ず、よく調べ、よく考えてから、信じるべきものと、そうでないものを、しっかり、よく分けるようにする」、とか、「多くの人々に、強い強制力や命令権を持つような人間や団体の存在というものを、そう簡単に無前提に受け入れるような態度はとらずに、そうした人々であっても、基本的に、自分達と同じ、普通の平等な人間に過ぎないので、たとえ、自分が、いかに、いっけん、無力な立場であったとしても、言うべきことは、はっきりと言い、やるべきことは、断固として、やる」というような態度を持つことが、とても大切なのではないか、というように考えております。

 

Cecye(セスィエ)

2012年1月31日 9:07 PM, キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観



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