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イエスについて Part 31

5、イエスに関する幾つかの疑問について

 第五には、ここでは、少しイエスと呼ばれる人に関する、幾つかの疑問について、考えてみたいと思います。

 

1、イエスは、当時のパレスチナにおいて、ユダヤ教を政治宗教化して、多くの人々に対して、物質的にも、精神的にも、かなりの恐怖政治を敷いていた闇の勢力に対して、一人一人の人間が、直接、神を信じ、神を求めることができるような、脱・政治宗教的な「光の教え」や「愛と自由の教え」を説くことを目指していたのではないか

 まず第一には、これは、現代人には、かなり分かりづらくなってきていることなのですが、とにもかくにも、当時のパレスチナの辺りの宗教事情というのは、今日的な感覚で言うと、政治と宗教が、ほとんど一体化していて(すべてが悪いとは言いませんが、一昔前の大日本帝国のような感じでしょうか・・・)、多くの人々が、何をするにも、当時の王様や貴族の顔色をうかがわないと生活できない、というくらい、かなりものすごい暴政が敷かれていて、その上、そうした当時の権力者の人々に従わないと、先に述べたキリスト教の問題とほとんど同じように、地上の世界において、奴隷同然の最低のどん底暮らしを強いられたり、また、場合によっては、例の磔刑(たっけい)のような極刑が、為政者の都合によって、簡単に行われるような、かなり悲惨な状況になっていた、ということです。

 さらに、その後の死後の世界においても、霊界の天国とは、本当に、ほど遠いとしか全く言いようがないような、地上の世界そっくりの幽界か、あるいは、地獄のような世界に赴(おもむ)き、しばらくの間、散々、のたうち回るように苦しい体験を積み重ねた後に、気がつくと、再び、地上の世界において、ほぼ同じような奴隷のような身分の人間、もしくは、家畜などの生き物として、本人の意思とは、全く関係なく、何度も何度も、生まれ変わらなくてはならないような、本当に地獄のような世界であった、ということなのです(つまり、例の闇の勢力によって、地上の世界も、また、地上の世界に近い幽界も、ほぼ完全な支配体制が敷かれていて、その中で、多くの人々や生き物達が、何度も何度も、本当に不毛な無数の生まれ変わりを強いられるような状況になっていた、ということです)。

 こうした当時のパレスチナの霊的な状況を打破するために、地上的に見ても、また、霊的に見ても、かなり危険であったにも関わらず、この宇宙の創造主の魂の片割れのような光の存在である、後世、「イエス」(元々は、「Yeshua(イエシュア)」)と呼ばれた人物が、地上に生を受けることになったわけなのですが、こうした客観状況からも、ある程度、推測されるように、はっきり言うと、もともと、ああした場所に、「イエス」と呼ばれる存在が生まれること自体が、言ってみれば、多くの人々への人身御供(ひとみごくう)のような側面があったので、霊的に見た場合、こうしたミッションというのは、最初の時点から、かなり危険なものであった、ということなのです。

 

 さて、そのような状況の中、イエスという人物が生まれると、彼は、いったい、どのような扱いになったのか、というと、当時のパレスチナの政府の裏には、例の闇の勢力の筆頭と言ってもよいような連中が、最初から、かなりしっかりとバックについていたので、もう彼が生まれる前後から、「その命を抹殺せよ」、とか、「絶対に成長させるな」、というような、イエスの存在の全否定を目論むような、かなり、ものすごい大パッシングを受けるような状況になってしまったのです。

 そこで、当時のパレスチナの辺境にあった、この世的には、平和主義だけれども(つまり、政治的には、穏健派)、霊的には、神秘主義、というか、秘密宗教のようなポジションをとっていた、今日的に言うと、「秘密結社」のような宗教の人々が、かなり用意周到に、イエスの身を守ったり、彼に対して、一種の霊的な英才教育を施すようなことをしていたようです。

 ですから、彼の幼少の頃の話は、多少は、残っているのですが、それ以降の彼の青年時代は、かなり謎に包まれていて、今日の感覚で言うと、ほぼ世界旅行と言ってもよいくらいの霊的な修行、つまり、当時のエジプトから、ペルシャやインドぐらいまで回って、あちこちで、さまざまな霊的な修行に明け暮れるような前半生を送っていたようなのですが、それゆえ、こうした彼の青年時代の修行の痕跡や、天才性の伝説というのは、最近まで、結構、あちこちに残っていた、ということが言えるようです。

 

 さて、そのようにして、かなりの霊的な修行を終えて、彼は、再び、パレスチナに戻ってくるのですが、ここからが、かなりややこしいのですが、実は、彼は、パレスチナに戻ってきた最初の時点から、「ここに戻ってくると、自分は、やがて、ほぼ間違いなく、当時の為政者達の都合によって、訳の分からない罪を着せられて、ものすごい殺され方をする」、ということが、あらかじめ、分かっていたようなところがあった、ということなのです。

 そうした未来の出来事を、あらかじめ、ある程度、予知した上で、彼は、当時のパレスチナに戻ってくると、いったい、何をしようとしたのか、というと、要約すると、彼の主義主張は、こんなものだったのではないか、ということです。

 「この国の人々は、上から下まで、全部、当時の宗教と密着した権力者のことを怖れて、地上的にも、霊的にも、ほぼ完全な奴隷生活を強いられている」、「もし、そうした奴隷生活を続けるのであれば、あなた方は、この人生のみならず、その次の人生も、その次の人生も、彼らの奴隷、家畜として、永遠に酷使され続けることになるだろう」、「だから、権力者の人々の政治的な命令に従うのは、ある程度、仕方がないとしても、ただ、権力者と同じ穴のむじなに過ぎない宗教家の言いなりの宗教生活なんて止めて、一人一人が、直接、神を信じ、神を求めるような宗教生活をしたら、どうだろうか」、「そうは、言われても、突然、やってきた、訳の分からない男の話など、誰も信じないだろう。だから、私は、神の栄光を指し示すために、神からの預言(霊的な啓示のこと)によって、神の言葉を話し、また、さまざまな癒しや奇蹟を伴う、神の業(わざ)を行い、『神が、もし、ここにいたら、こうするだろう』、『神が、もし、ここにいたら、こんなことができるだろう』、というような見本を、現実に、あなた方に、直接、見せてあげよう」、「病の人を癒し、湖の上を歩き、何もない所から、パンやワインを出してみせ、いかなる苦しみや辱(はずかし)めの中にあっても、絶対にひるまずに、ただ、愛のために生き、愛の中にある人生を見せてあげよう」、「だから、あなた方も、為政者達の繰り出す、いかなる恐怖や苦痛にも打ち克ち、また、不必要な欲望にも振り回されずに、ただただ、本当の神を求めるような人生を送りなさい。そうすれば、この地上の世界では、いかに厳しい、苦しい人生を送ることになったとしても、この人生を終えた、来世の世界では、ひたすら、苦しみのみが続く、悪の輪廻の世界ではなく、真実の神がいる、永遠の楽園であるパラダイスに生まれ変わることができるだろう」、「だからこそ、この地上の世界の権力者の操る適当な神ではなく、真実の神、愛の神をこそ、ただただ、ひたすらに求め続けなさい。そうすれば、最後の審判の後に、あなた方は、永遠の神の国、天国のパラダイスで、永遠の至福の生活を送ることができるようになるだろう」、というような教えだったのではないか、ということです。

 つまり、当時のイエスの教えというのは、当時の多くの人々が、生まれた時から受け入れさせられてきた、一種の政治宗教である「ユダヤ教」の束縛から、多くの人々を引き離し、本当の天上の神である、この宇宙の唯一にして、至高の光の創造主のことを、心の底から信じて、生きてゆくような、脱・政治宗教的な「光の教え」、あるいは、政治的束縛から離れた、真の精神的な自由を模索するための「愛の教え」、もしくは、「自由の教え」だったのではないか、ということなのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年2月4日 9:07 PM, おすすめ記事 / キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観



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