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試験が、絶対正しいとは限らない Part 5

 ここで今まで書いた内容を、もう一度まとめ直すと、大体、以下のようになります。

 

①試験の合格によって、試験の主催者が保証しているのは、その人が、一定の範囲内の知識や技能を修得しているということだけなので、どんなに難しい試験の合格者であったとしても、決して、それ以外のすべてのことまで「その人が、絶対に正しい」とか、「その人が、ものすごく偉くて優秀である」などと安易に考えてはいけないということです。

②試験の合格によって分かるのは、ある特定の時点におけるその人の知識や技能の修得レベルだけなので、それゆえ決して、どんなに難しい試験の合格者であっても、その後、10年後、20年後まで、その試験の合格時と同じレベルの知識や技能があると、そう簡単に信じてはいけないということと、できれば、その試験の主催者は、その人の知識や技能の証明のために、一定期間ごとに何らかの再講習や再審査のようなことを実施すべきであるということです。

③人類の歴史を見る限り、絶対に正しい公正な機関なんて、どこにもなかった、ということが言えるので、それゆえ試験の採点や評価というのは、できれば全然、利害関係がないような外部の第三者みたいな人間をたくさん交えるか、もしくは、試験者と受験者が、お互いに双方向で対等にやりとりできるような、できるだけ一般市民に対して、オープンでフレンドリーな形の試験制度に変更する必要があるということです。

④現実には、試験内容と、実際の実務の内容は非常にずれやすいものなので、それゆえ本当は、どんな試験であっても、できるだけ試験自体は簡単なものにして、試験重視ではなく、その後の実務における能力や実績主体の評価制度にして、そして、その人が自分自身の希望によって、いつでもその研究や仕事についたり、やめたりできるとか、あるいは、外部の誰が見ても、その人の人柄や能力や実績などによって、「なるほど、この人なら自分も納得できる」と思えるような人間だけが、その分野で末永く仕事が続けられるようにするような一種の競争性の導入によって、より自由でオープンな社会制度にしておくことが、とても重要なのではないか、ということです。

 

 とにかく現代の地球の社会だと、ともすれば試験というのは、まるで一つ上の身分を保証するための、言ってみれば、水戸黄門の印籠のような不思議な効力を持つような傾向があるのですが、しかし現代のような民主主義社会においては、たとえ、どんなに難しい試験に合格できたような人であったとしても、その人を、まるで一段上の特別な身分階級のように祭り上げてゆくことに関しては、本当は民主主義社会としては、かなり問題があるのではないか、というように私は率直に考えております。

 

Cecye(セスィエ)

2010年11月18日 9:14 PM, 教育 / 知恵、正しさ / 社会、文化



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