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現在伝わっている「仏教」は、肉体的欲求の否定や、悟りの不明確さや、カルマ上の混乱などの点で、霊的に見た場合、かなり問題が多かった Part 4

4、霊的に見た場合、「自分が、どんな人を心から尊敬し、偉人として受け入れるか」ということは、とても重要なことなのだが、仏教の場合、よく考えてみると、我慢や不幸や、何もしないこと自体を、ものすごく偉いことのように錯覚してしまうことがあるので、注意が必要である

 第四には、これも、かなり問題が多いのですが、仏教の歴史を調べると世界中の他の宗教と同じで、ほぼ偉人列伝、超人列伝のような感想を持つ方が多いのではないか、と私は思うのですが、ただ、ここで問題なのは、私は、真実の宗教的な態度としては、たとえ、昔の人物であったとしても、そう簡単に「へー、この人は、すごい人だったんだな!」とか、「この人は神(仏)だったんだ!」とか、「この人は、ものすごい偉い人なんだ!」などと受け入れてはいけないのではないか、ということなのです。

 その理由は単純なのですが、実を言うと、宗教や教育には、少し恐ろしいところがあって、「その事実を受け入れると、自分の意見を素直に言うことができなくなってしまう」とか、「それを凄いと思うと、自分は、じっと静かに黙って、幸福など絶対求めずに一生、不幸な人生を生きることが、一番大事であるかのように思い込んでしまう」とか、「その人への信仰を持つということは、とにかく、我慢を我慢とも思わないようになるくらい自然に我慢できるようになって、一生、暗く生きてゆくことが大事であるかのように強く信じ込むことになってしまう」などというように、結構、その人の人生を、後々まで重く縛り上げてゆくようなところがあるのです。

 ですから、これは、はっきり言って申し訳ないのですが、もし、その人が、何らかの社会事業のようなことを行って、現実に多くの人々の不幸を取り除いたとか、多くの人々をより幸せにした、というような人物を、単純に素晴らしいと考えて、「自分も、そのように自分自身の幸福も大切にしつつ、できるだけ多くの人々の不幸を減らし、幸福にできるように頑張ってゆこう」と思えるような人であるなら、私は、純粋に尊敬してもよいと思うのですが、よく考えてみると、単に神社仏閣のような建物をたくさん作っただけであったとか、一人でこもって、瞑想していただけだったとか、とにかく我慢と辛抱の生活を送っただけだった、ということであるならば、本当は、霊的に見た場合、そうした人を、単に有名というだけで尊敬したり、拝んだりするのは、かなり問題なのではないか、ということなのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年5月12日 9:09 PM, 仏教



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