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国民みんなで、親も子供も地域の人達も最も楽しめるような経済的で合理的な教育システムにもう一度、ゼロから手作りで作り直す Part 1

 前回に続き、教育の話になります。

 

もうそろそろ日本の学校も、一人一人の個性や創造性を重視した教育内容に変えないと、せいぜい、あと数年ぐらいで、だんだんアジアの中の一小国のような国際的扱いに下がるような事態になってゆくことになる

 第三には、これは現在の日本の教育制度の明らかな弊害であるとしか、もはや言いようがないような内容の一つなのですが、いくら知識教育が重要だからと言って、いくら何でも小学校から中学、高校までの、大体9年から12年もの間、何もここまで長く暗記重視のほとんど一方通行の詰め込み教育をやることはないのではないかということです。

 これは前にも述べたように現代の日本の学校教育の基礎が築かれたのが、その大本の部分が明治時代、それから戦争に負けて抜本的に教育内容の見直しが行われたのが戦後のごちゃごちゃした時期で、基本的にはそれ以降、日本の教育行政においては、どんなに大問題が持ち上がってきても「改革」と称する、ちょっとした小手先の変更だけでほとんど何も変えてこなかったというのは、はっきり言って、今日の日本人なら誰でも知っているような事実なのではないかと私は思うのですが、私は、先ほど述べたような教育内容の見直しや教育効率のアップを前提として、もうそろそろ一人一人の子供の個性の違いや創造性を伸ばすような教育内容に見直さないと、多分、もうあと数年もすると、「日本が、「アジアの中の大国と呼ばれたのは、もう完全に昔のことだった」と言われるような国際的な状況に置かれるのみならず、それに伴って国民の生活自体も、だんだん現在以上にもっとはっきりと衰退し困窮してゆくような流れになるのは、ほぼ確実なのではないかというように率直に感じております。

 それゆえ私は、現在の日本の学校教育には、一人一人の子供の個性や創造性を重視した、かなり大胆な教育内容の変更が必要なのではないかと考えているのですが、ここでは三つだけ簡単な提案を行ってみたいと思います。

 

①たくさんの人達の本音の討論を通して、みんなで一番合理的でお金のかからない、親も子供も地域の人達もみんなで一緒に楽しめるような新たな教育目標と、そのための教育手段を一つ一つ手作りで作り直してゆく

 まず第一には、これは多分、普通の企業なら、どこでもきっちり突き詰めてやっているような内容なのではないかと私は思うのですが、現在の日本の学校の最大の問題は、多くの人々が「学校は重要だ」とか、「とにかく学校に通わなくてはならない」などと強く思い込んでいるわりには、「そもそも、なぜ学校が必要なのか」とか、「子供を学校に通わせて、一体何をさせようとしているのか」ということが意外とかなり曖昧というか、はっきり言うと、ほとんど誰も考えていないところにあるのではないか、ということなのです。

 それゆえ私は、現在の日本のようなある程度、民主化も経済発展も成功した成熟した先進国の場合には、たくさんの人達が自分達の本音ベースでの討論を通じて、「教育活動を通して一人一人の子供達に対して、一体何を教え、何ができるようにさせたいのか」とか、「そのための最も合理的かつ経済的かつ楽しい方法としては、一体どんな方法があるのか」ということを、もう一度ゼロから考え直すべきなのではないかというように考えているのです。

 そして、そうした多くの人達の本音ベースでの討論を通して、みんなで決めた教育目標の実現のために、できるだけ合理的かつ経済的、かつ親も子供も地域の人達も最も楽しいと感じられるような最善の方法を、みんなで手作りで、もう一度、新たにゼロから作り直してゆけばよいのではないかということなのです。

 

 続く・・・

 

 

 追伸

 これは霊的に敏感な方だと、少し調べてみると結構よく分かるのではないかと思うのですが、学校って結構、現代人というか、地球人に対して、かなり強烈なマインドコントロールのパワーをかけてくるところなので(学校に波動を合わせると、かなりギューッとか、ガーッとか強く締めつけてきませんか?)、確かに学校は大切だし、学校には行かないといけないとは思うけれども、行くとその後、結構、後々まで人生のいろいろな所で自分の判断とか、魂の領域までかなり深くマインドコントロールしてくるようなところがあるということなのです。

 それゆえ、アセンションした側の少し未来の地球の人々の現代の時代への感想の中には、確かに学校制度が、多くの人々の知性や技術を高めて地球文明の発達に貢献したことは事実だが、それと同時に前に述べたような観点、つまり「とにかく目上の人に絶対に従わなくてはならない」とか、「すべての人が常に正しい、ただ一つの答えや命令だけを受け入れてゆけばいいのだ」とか、「頭の悪い人は何も考えずに頭のいい人に、とにかくどこまでも従ってついてゆけばいいのだ」というような、はっきり言うと血の通った自由意志のある人間というよりも、一種の機械やロボットに近づいてゆくような考え方をあまりにも機械的(工場的?)な方法で、たくさんの人達に強制的に教え過ぎたというような点について、その後(現代も?)のたくさんの人類の過ちの結果から、かなり強く批判されるようになったということなのです。

 それゆえ、こうした教育のことを書くと、かなり厳しい霊的な妨害と、それから物理的な妨害を日々受けているということを現在、私は非常に痛感しているのですが、こうした教育に関する内容は、今後のアセンションとも非常に深く関わるような非常に重要なことであると、私は深く確信しているので、もう少し続きを書き続けてゆきたいと思います。

 

Cecye(セスィエ)

2010年10月5日 9:24 PM, おすすめ記事 / 教育



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