Light Symbol

常に霊的にも物質的にも、また個人としても集団としても、最高にして最善の「幸福主義」的な生き方を志向してゆく Part 2

多くの人々の幸福に関する四つのアプローチについて

 そうすると、この世界には、こうした質問に対して、主に四つくらいの考え方というか、ポリシーを持つ人々がいるのではないかと私は考えているのですが、具体的に言うと大体、次のような四つのケースになります。

 

①たいていの人は、楽しそうなことと嫌なことが二つ並んでいたら、どちらが嫌で、どちらが楽しいかぐらいまでは、すぐに判断できるのだが、その後、いろいろな事情を考えると、結局、10年、20年と現状維持のまま、そのまま何もせずに過ごしてゆくことが多い

 まず第一には、嫌なことと楽しいことが二つ並んでいたら、まずは何の問題もない場合には、すぐに何も迷うことなく嫌なことは避けて、楽しいことを選ぶというような選択肢になってきます。

 ところが、この場合には結構複雑な、ややこしい問題点があって、それというのは、こうした形で常に自分の嫌なことは避け、自分が楽しいと思えるようなことだけを選択しようとしても、人生というのは、そう単純ではなくて、「そうは思っても将来のことを考えると、ここは厳しい選択しかないでしょう」とか、「それは楽しそうだけど、家族のことを考えると、そんなこと、いつもいつも選べるわけないじゃない」などというようなケースが結構多いのです。

 それゆえ、たいていの人は、「こっちが、ちょっと嫌なことで、こっちは、いっけん楽しそうに見えること」というのは、わりとすぐに判断がつくのですが、「それでは、今すぐ嫌なことは避けて、自分が一番楽しいと思えることをしましょう」などと言われても、「それは、もう少し経済的に豊かになってから・・・」とか、「それは将来、時間が出来た時に・・・」とか、「それは、もう少し仕事で成功できてから・・・」などと考えているうちに、気がつくと何年、何十年と、ほとんど何もしないうちに月日だけが流れてゆくことになることが多いので、現実にはそうした選択肢があっても十中八九どころか、百中一二も何もしないで現状維持の判断をすることが、ほとんどなのではないかということです。

 

②宗教的な信念や自分独自のポリシーに基づいて、普通の人々の楽しみとは違った別の幸福を目指してゆくような生き方もあるのだが、それはあまり大変な不幸な状態に陥らないための自分や家族の最低限度の幸福の維持中心の生き方であると言える

 第二には、「みんなが、いろいろなことをして、たくさん楽しんでいるのは、よく知っている。だけど自分は、宗教的な信念や自分独自のポリシーに基づいて、基本的にそういうこの世的な楽しみはなるべく慎んで、多少地味であっても、もう少し精神的な祈りや瞑想だとか、個人的な趣味の世界で楽しむことにしている」というような人も世間では、結構、ちらほら見かけることになります。

 ただし、この場合、問題なのは、私が観察する限り、どうもこうした人々の楽しみというのは、先ほどあげた幸福観のパターンでいうと、いわゆる「自分が不幸でない状態を、できるだけ長く維持したい」とか、「自分は賭け事や娯楽に興じて、人生を棒に振るような馬鹿な人間の真似だけは絶対にしたくない」というような考え方のように見受けられるので、それでは、そうした人々に「あなたは、本当に心の底からの幸福感を感じているのですか?」ということを尋ねた場合には、おそらく、そうした人々というのは、それほどものすごい幸福感は感じていないけれども、だけど、それほどものすごい挫折感や喪失感であるとか、それほどものすごい孤独感や不幸な感覚というものも感じていないというような、言ってみれば、ちょっと中途半端な精神状態になっているのではないかということなのです。

 つまり、そうした人々は、いったいどのような幸福観を持っているのかというと、それは自分の信じる宗教信条や、あるいは自分の世間での見聞や経験上の教訓から非常に慎重な態度で、あまり大変な不幸な状況に陥らないように一生懸命、予防線を張り続けることによって、自分がある程度、納得できる程度の最低限の幸福だけは何とか死守したいというような、言ってみれば、最低限度の幸福の維持中心の生き方を心掛けているというように言うことができるでしょう。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年8月4日 9:33 PM, 人生観、世界観



«

»

おすすめ記事

過去の記事