キリスト教的な「信仰」のもたらす恩恵と、その問題点について
次には、霊的に見た場合、キリスト教的な信仰において、特に問題があると思われる内容について、さらに深く、考えてみたいと思います。
それは、いったい、何なのか、というと、ずばり、「信仰心」という内容そのものになるのです。
つまり、もう一度、話を戻すと、パウロという人は、イエスの弟子を迫害した後に、奇蹟によって、回心し、その後、彼独特の、非常に強い「信仰論」を推進する立場になった、ということなのですが、私も個人的な体験上、こうした信仰的な体験が、その人個人としては、非常に心安らぎ、幸福をもたらすことまでは、よくよく理解できるのですが、ただ、霊的に見た場合には、これほど危険なものはない、というほど、本当は、非常に問題の多い内容にもなっている、ということなのです。
それでは、こうした「信仰論」のいったい何が問題なのか、というと、大まかに要点だけ述べると、大体、次のような二つの内容になります。
1、信仰心を持つことが、その人の精神に穏やかな安らぎや幸せをもたらしてくれることは、確かに事実なのだが、ただ、神仏と自分との間に、あまりに強い上下感を持ったり、神仏に対して、あまりに強い信仰的な信念を持ちすぎると、かえって、神仏との霊的なコミュニケーションが出来なくなることがあるので、注意が必要である
まず第一には、これは、単純に効果だけを述べてみたいと思うのですが、自分が、何らかの強い信仰心のようなものを持つと、それによって、「何か目に見えない光のようなものに包まれる体験をする」、とか、「非常に眩しい光を感じて、その光を信じて、拝んでいると、心が暖まるような気分がしてくる」、とか、「そうした霊的な光と、自分を一つにしてゆくと、何も考えなくても、とても幸せな気分がしてくる」、というような精神的な効果があるのは、私も認めるのですが、ただ、これには、一つだけ問題があって、こうした形で、何らかの神仏や光のようなものに対して、あまりにも強い信念、というか、強い念いを向け続けるような精神状態を、神仏への信仰であると、強く思い込んでしまうと、地上の世界において、そうした生活を、何年、何十年と続けていった人というのは、死後の世界においても、やはり、同じように、神仏や光に対して、一種独特の強い信念を向け続ける、というか、ひたすら同じような意識を保ち続けるような精神性を、心の底から、すっかり身につけてしまうようなところがあるのです。
ところが、こうした精神性を、神仏への信仰であると、すっかり思い込んで、安心していると、霊界というのは、怖いもので、霊界にいる、光の魔物、というか、もっと正確に言うと、一種の偽神仏のような存在の作り出す、一種の幻影、というか、一種の蜃気楼のような世界に取り込まれたまま、いつまで経っても、出て来れなくなってしまうような、大変な事態に巻き込まれてしまうことがあるのです。
これは、前に述べた、五次元以上の世界の、本物の天国ではない、いわゆる、四次元の上の方に、結構、広大なエリアとして、存在している「疑似天国」、もしくは、「偽光界」、「中空」と呼ばれる、いっけん、本物の天国と非常によく似ているけれども、よく調べてみると、そうではない、というような、いわゆる、偽物の天国の世界に引き込まれてしまう、ということであるのですが、この後が、ややこしくて、私の調査では、この地上の世界では、そこそこの、かなりしっかりした人物であったとしても、死後、いったん、こうした疑似天国のような世界に入り込んでしまうと、そこを本物の天国と信じ込んだまま、何十年、何百年と、いつまで経っても出てこれなくなってしまうような人達が、かなり数多くいた、ということなのです。
こうした疑似天国の話は、巷の霊界物の本の中でも、しっかり取り上げられているようなので、それゆえ、多くの人々が、そうした、ちょっと怪しげな霊界物の話を聞くと、「こんな死後の世界、本当にあるのかな?」、とか、「ごちゃごちゃして、ちょっと気味悪い」、とか、「いっけん、すっきりして、神や天使みたいに感じるんだけど、なんか、ちょっと嘘臭いな?」、などというような素朴な感想を持つことが、非常に多いようです。
Cecye(セスィエ)
2012年1月11日 9:01 PM, おすすめ記事 / キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観