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常に霊的にも物質的にも、また個人としても集団としても、最高にして最善の「幸福主義」的な生き方を志向してゆく Part 3

③世の中には、学力や経歴もそこそこあるような、いっけん、かなり信頼できそうな人物であっても、「自分さえ幸福であれば、他人が、どうなろうが一切気にしない」というような、とんでもない詐欺師のような人物もいるので注意が必要である

 第三には、これは少し悪いケースになってくるのですが、世の中の様子を見ていると、これはどう考えてみても自分さえ楽しければ、得できるのであれば、他の人をいくら自分勝手に利用しても構わないとか、いくら損させても構わないというような一群の人々がいるように見えるということです。

 この場合は、先ほどと問題のベクトルが入れ替わっていて、周りの人々としては、はっきり言って迷惑以外の何物でもないので、その人には、「さっさとそんな他人迷惑の勝手な幸福主義はやめてくれないか」というような話になってくるのですが、ところが世の中には、本当にとんでもない人間がいるもので「いや、自分が幸福なら他の人のことなんて全然、気にしなくてもいいんじゃないか」とか、「この世界は、法律主義の競争原理の社会になっているんだから、この社会のルールさえある程度、守っていれば、少々他人に迷惑をかけようが、少々法律違反しようが、別に構わないんじゃないの?」とか、「騙された人が悪いに決まっているでしょう」などと平気でとうとうと話してまわるような人間も実際、ごろごろいるようなところがあるということなのです。

 それゆえ、これは親や親族があまりしっかりしていなくて、「教育は学校に任せておけば、それで十分」なんて放任主義の子育てをされた人にとっては、本当に迷惑な話になってくるのですが、そうした子育てをされながら、学校では、そこそこ優秀だった人というのは、「ちょっと学歴や経歴がある」とか、「ちょっと凄いと人づての話を聞いた」とか、「ちょっと凄い実績があるらしい」なんて話を聞くと、あまり深い警戒心も持たずに「この有名大学出の先生についていけば、自分はもっと成功できるのではないか」とか、「この凄い実績の人に弟子入りすれば、自分は何か素晴らしい人生が歩めるのではないか」などと、わりと簡単に信じ込んでしまいやすいようなところがあるのです。

 ところが、その後、そうした所で何年、何十年と過ごすうちに、そのうち「ちょっといくら何でも、この団体って、なんか変なんじゃないの?」とか、「あれから十年以上経つが、たくさんお金を貢(みつ)いだわりには、結局、いつまで経っても自分の人生は、何の代わり映えもしない地味な人生のままだ」などという具合に、遅ればせながら自分の過ちに気付いて、そうした宗教や団体や教師の下から去るような事態に陥ることも、現代の時代には、まだまだ多いということが言えるでしょう。

 

④人間というのは、かなり特殊な修行や訓練をすることによって、普通の人々には全く分からないような感動や悦びやエクスタシーを感じられるようになるものだが、これを悪用されると、ほぼ完全な人格破壊や、犯罪者やテロリストになるような人格改造をされることもあるので、非常に厳重な警戒と注意が必要である

 第四には、これはかなり特殊なケースであるのですが、実は多くの人々の常識というか、思い込みとはかなり違って、人間というのは、ある程度の特殊な修行というか、訓練のようなものをすると、普通の人では全く何の楽しみも実用性も感じられないようなものが、何となく、とても価値のある、ものすごいもののように思えてくることがあったり、あるいは、それまでの普通の人生では全く味わえなかったような心の底からのしみじみとした感動や悦びや、また場合によっては、セックスのエクスタシーとも非常によく似た一種の恍惚感のようなものですら感じられるようになってゆくようなところがあるということなのです。

 つまり普通に自然に生まれ育った人間には全く、よく訳も分からないような感動や悦びや、セックスのエクスタシーとも非常によく似た不思議な幸福感の世界があるということを、ここで私は説明しているのですが、ところが現代の社会では、こうした特殊な修行や訓練についての世間の人々の認識というか、理解が、まだほとんどよく出来ていないようなところがあるので、その結果、そうした特殊な人々の実態が、まだ学問的な研究の対象にすら、ほとんどなっていないようなところがあるということなのです。

 ここでは例として、二つほどあげてみたいと思うのですが、まず一つめは、これは、いわゆる現在だと学校教育が、まさしく、これに当たっているのですが、多くの人々は、なぜか十年前後の学校教育を受けると、本当の実感としては、自分は全く幸福感のかけらすら感じていないようなものに対して、ものすごい充実感や満足感を覚えるようになったり、あるいは、ものすごい高揚感や至福感を感じるようになることすらあるということです(みなさんご自身の体験から、お考えになられれば、すぐに分かると思います)。

 それから二つめは、これは日本だとよく新興宗教の問題として取り上げられることが多いのですが、つまり、そうした新興宗教に属して、そこで教えられる信仰や教義や何らかの実習内容を通して、その宗教独自の精神世界に本当に心の底から、どっぷりはまるようになってゆくと、これは外部の人々から見ると本当に理解不能と言ってもよいくらい驚くべき内容になってくるのですが、外部の人々から見ると、これはどう考えてみても我慢と忍耐の極限のような状況なのではないかと思われるような行為が、その教団の内部の人々にとっては、ものすごい満足感と幸福感を感じさせる「宗教的な悟り」と呼ばれるような内容として扱われていることがあったり、あるいは外部の人々から見ると、これはどう考えてみても反道徳的、反社会的行為そのものなのではないかと思われるような行為が、その教団の内部の人々にとっては、ものすごい至福感と、場合によっては恍惚感すらもたらす行為とされていることがあるなどというように、実は、そうした宗教で教えられる信仰や教義や何らかの実習のようなことを行うと、それによって普通の人々としては、いっけん全く理解不能、認識不能の幸福感や満足感や、場合によっては一種のエクスタシーに似たようなものすら感じられるようになることがあるということなのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年8月5日 9:33 PM, 人生観、世界観



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