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本当は、民主主義においては、一般の人々の方が、政治家を評価する側の先生の立場で、政治家の方が、一般の人々から評価される側の生徒の立場になっている

 今回から、何回かに渡って、再び、現在の日本の政治についての見解を述べてみたいと思います。

 

本当は、政治家と一般の人々との関係においては、政治家が、偉い先生なのではなくて、一般の人々の方が、政治家の仕事ぶりや能力を評価する側の、学校で言えば、教師の立場に立っているにも関わらず、現代の日本では、いまだに、そうした民主主義の基本が、よく理解されていないように見える

 これも、現在の学校教育の結果、多くの人々が誤解しているのではないか、と思われる内容になるのですが、こと政治家と、普通の一般大衆との関係においては、学校の教師と生徒の関係とは、全く正反対で、政治家の方が、普通の人々から、常に監視され、評価される対象になっている、ということなのです。

 つまり、もっと簡単に言うと、普通の一般の人々が、政治家の仕事ぶりに関して、「あなたは、この仕事については、80点の評価だけど、この仕事については、ほとんど落第ね」、とか、「あなたは、これを、絶対、やるって言ったけど、三年も経つのに、全然、できていないから、完全に不合格ね」、とか、「あなたは、これをやるって言ってたけど、1年もしないうちに、それができるなんて、オールAの成績ね」、などという具合に、言ってみれば、普通の一般の人々の方が、教師の役で、成績をつける側の立場で、その反対に、政治家の方が、生徒の役で、成績をつけられる側の立場になっている、ということなのです。

 こうした観点から見る限り、現在の日本のように、政治家のことを、「先生」、「先生」、などと呼ぶような習慣というのは、私から見ると、「きっと、この国の人達は、民主主義というものが、何かということを、ほとんど全く理解していないのだな」、というように、いつも率直に感じていたのですが、それもこれも、元をたどると、人生の最初の数十年の間における学校教育の段階において、あまりにも一方的に受け身の立場でもって、勝手に点数を付けられたり、評価されたりするような体験が、あまりにも多すぎたからなのではないか、というように、私は、率直に考えております。

 それというのは、普通、民主主義国では、たとえ、年齢や役職が違ったとしても、また、教師であっても、生徒であっても、同じ平等な人間なのだから、本当は、教師が、生徒のことを、一方的に評価し続けるような評価制度なんて、とんでもない人権侵害で、そうではなく、教師が、生徒を評価できるなら、同じように、生徒や、その父母も、教師を評価できなくてはいけない、というのは、全く当然のことであるはずなのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年5月21日 5:22 PM, 政治



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