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単なる文章の解読と、その試験のような国語教育はもう意味がないから、もっと創造的で実社会で役に立ち、幸福な自己実現を後押しするような国語教育に全面的に切り変えた方がよいのではないだろうか

 今回も前回に引き続き、教育についての話になります。

 

2、何でも難しく考えて自己卑下して、自分は、何も出来ないと考えるようになるような国語教育はやめて、もっと創造的で実社会で即座に役に立ち、しかも、その人の幸福な自己実現を、より積極的に推進するような国語教育の実施がとても重要である

 第二には、これも非常に問題なのですが、現代の日本であると学校の勉強の結果、何でも物事を難しく考えて、何も出来なくなってしまうような人達が、あまりにも多過ぎるのではないか、ということなのです。

 これは純粋に誤った国語教育の結果なのではないか、というように私は素朴に感じているのですが、とにかく現代の日本人は、本のような文章の塊を見ると、ほぼ反射的に、「自分は、この内容をそのままそっくりストレートに受け入れないといけない(そうしないとテストでバツにされる)」とか、「文章の内容がよく分からなくても、とにかく読んで、話さえ聞いておけば、それでいい(国語の授業はみんな、そんな感じなので)」とか、「たとえ文章の意味が分からなくても、教師の言っていることの意味がチンプンカンプンでも、とにかく、その文章や教師は絶対、すごいと信じないといけないし、一切、ケチをつけてもいけない(そう考えないと授業が分からないことになって、テストが通らなくなってしまう)」というような考え方をする人が、非常に多いのですが、はっきり言って、こうした考え方は、実際の社会では、ほぼ全く通用しないような間違った考え方なのではないか、ということなのです。

 つまり、実際の社会では、「何でも言われた通りのことしか出来ない人間は、だんだん馬鹿にされて、相手にされなくなってゆく」とか、「長い話なんて、全部理解できていなくてもいいから、 とにかく自分がやるべきことがしっかり出来ていないと、いつまで経っても半人前扱いされてしまう」とか、「学校の教師の話に合わせても、実社会では、全然通用しないことが多いから、とにかく実際の仕事が、しっかり出来るように詰めてゆかないといけない」とか、「とにかく偉いと言われているような人の話よりも、お客さんや現場のことをよく知っている人の話に合わせていかないといけない」などというような状況になってゆくことが非常に多いのです。

 つまり実際の社会では、「他人に言われたこと以上のことが出来ないと、一人前の社会人扱いしてもらえない」とか、「長時間の勉強ではなくて、とにかく短時間で、確実に成果を上げ続けてゆかないといけない」とか、「無意味な長い話は嫌われるので、とにかく短い話で、要点をうまく説明できないと馬鹿者扱いされる」とか、「一部の権力に媚びるような仕事ならともかくとして、それ以外の普通の仕事では、とにかく偉い人の命令よりも、普通のお客さんの満足を第一に考えないといけない」などというように、はっきり言うと、学校の授業とは全く正反対の状況になることの方が、非常に多いのです。

 

現代のような時代には、もう勉強のための勉強ではなく、自分が主体的に考えて、何かを発表して、世の中の役に立ってゆくとか、何らかの自己実現をしてゆくような、より創造的な国語教育でなければ、実際問題として、ほとんど意味がなくなりつつある

 それでは、こうした社会状況では、一体、どのような国語教育が必要なのか、というと、大体、以下のような二つの内容になります。

 まず第一には、教師が実社会で、すぐに使えるようなテーマを与えるか、もしくは、自分が興味のあるテーマに基づいて、自分の好きなように情報を集めさせて、その上で自分で、「これが自分が、最も正しいと思う答えだ」という内容を、自分でまとめさせては、ある程度の人数の人の前で、何度も何度も発表させてゆくということです。

 ただ、この際の注意点としては、教師は、あくまで単なる傍観者やアドバイザーとして振る舞い、その内容自体についての評価は、その人自身が、自分で行えば、それでよいということです。

 第二には、これは現代の教育だと、あまり行われていないのですが、単に他の作家の文章を読ませるだけでなく、その人自身で自由に創作させ、発表させるような機会を与えることが、とても重要であるということです。

 つまり、何も現代のような出版物の溢れ返っているような時代には、いつまでも単なる読者のまま、文章を読ませ続けるような教育なんて、もうほとんど意味がないので、私は、ある程度の年齢になったら、美術や技術の実習と同じように自分で絵本や物語を作ってみるとか、自分で何か企画を立てて、どこかの会社に持ち込んでみるぐらいの実習をどんどんさせたら良いのではないか、というように考えています。

 当然ですが、この場合も教師は、単なる聞き手やアドバイザー以上の立場は絶対にとらずに、その人自身に自分の評価をさせることが、非常に重要になります。

 つまり、現代の社会においては、もう一昔前の時代のように偉い先生さえOKと言ってくれれば、何でもうまく行くような時代はすっかり終わっていて、そうではなく、何か新しい創作物や企画を立てた場合には、それを読んだ人が、一体、どのように感じたのかとか、どれくらい共感したのか、というような、いわゆる顧客サイドの物の見方を持つことの方が、遥かに重要になってきているのです。

 

 続く・・・

 

 追伸

 うちでは、子供達に、「自分で絵本や本を作る」というような課題を与えて、やらせたことがあるのですが、いまだにそうした絵本や本は、ちょっとした子供達の宝物みたいになっているので、結構楽しみながら、できたようですよ。

 当然、間違った字は見てあげて、教えてあげるようなことはしたのですが、別にバツをつけるようなことは一切していないので、そうした会話は、その時だけで、何も覚えていないようです。

 これって、やると意外と簡単にできるので、結構面白いと思います。

 

 ちなみに今でこそ、私は毎日、こうした文章をたくさん書いているのですが、私は子供の頃、自分は国語は、ほとんど落ちこぼれではないかと考えていたので、現在でも時々、とても不思議な感じがしています。

 それで、どれくらい国語が嫌いだったかと言うと、ある少年の夏休みの頃、「読書感想文を書いてきなさい」という宿題が出たのですが、私は、当時から個人的に、いろいろ忙しかったために(いわゆる単なる趣味のことです。宇宙的なことは、単に天文やSF小説の本を読む程度でしたが)、ついに夏休みが終わっても、一冊も本を読んでいなかったのです(つまり子供の頃の私の家庭は、ここで書いているような教養家庭とは、ほど遠かったということです)。

 そして、夏休みが終わってから、学校のお勧めの本を読むのかと思うと、もう気が滅入ってきたので、そこで意を決して、「もうこうなれば、自分の好きな内容で本を読んだことにして、適当に感想文を書いて、提出することにしよう」、「どうせ国語の先生も、世の中すべての本を読んだわけでもないのだから、多分、気がつかないだろう」ということで、当時、私の大好きだった西洋の帆船や海賊物の知識を総動員して、「多分、お話としては、こんなものだろう」みたいな本があることにして、原稿用紙で何枚も感想分を書いて、提出したことがありました。

 その時、「こういう文章って、書いてみると意外とたくさん書けるものだな」と感じたのと、その後、いつか国語の先生に、「君、君・・・」と突っ込まれるのではないか、と多少、ドギマギしていたのですが(こういうことをした後の国語の先生の何となく、ニヤニヤした感じの表情というのは、実に気になったものです?)、結局、その後、別に呼び出されたわけでもないので、「まあ、世の中なんて、こんなものかもしれない」などと、子供ながらに考えていたものでした。

 

 さらに追伸

 何か言い訳するみたいですが、誤解する人がいるといけないので、念のため、もう少し正確に言うと、本当は、本は読んでいたんです。

 ただ、分厚い天文学の本を数冊と、ロボット工作のようなハウツーものの本と、確かSF小説のようなものと、そうした当時の流行り物のマンガのようなものだったと記憶しております。

 それで夏休みが終わる頃になって、「ああ確か、できれば文学書みたいな推薦の本を読んで、感想文を書きなさい、という宿題があったな・・・」ということになって、「え〜と天文学の本じゃ感想文にならないし、科学工作物もダメだな。SF小説もアウトだろう。じゃあ、どうする?」ということになって、散々迷った挙げ句、そうした、いきさつになったということです(まあ、結果は一緒ですが・・・)。

 

Cecye(セスィエ)

2011年5月25日 9:24 PM, コラム / 成功論、繁栄論 / 教育 / 知恵、正しさ / 社会、文化



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