③多くの人々の意識の変容によって、これまでの時代のように政治や社会の汚職や腐敗を、いつまでも放置しておくことが、だんだん精神的に不可能になってゆくので、将来的には、そうした政治や社会の浄化や合理化が、かなり早いペースで、次々と実現するような一種の理想世界になってゆく
第三には、これは、本当は、できれば、あまり明言したくないのですが、現在のように、多くの人々が、世の中のいろいろな人間の立場や出来事に対して、これまでの時代のように、「あの人だけは、特別だ」、とか、「これは、まあ放っておいてもいいか」、とか、「これは、よく分からないけど、絶対、言ってもいけないし、やってもいけないことなんだ」、などというように、特別な人間や組織の立場であるとか、特別な出来事の存在というものを、だんだん、そう簡単には、受け入れなくなってゆき、そうではなく、「この人が、こうなら、あの人も同じように扱わないと、まずいんじゃないか」、とか、「これもそれも、全部、ちゃんと、うまく合理的に機能していないと、何となく、気が済まない」、とか、「よく分からないことなんて、今すぐ、止めればいいんじゃない」、などというように、よほどの特別な事情でもない限りは、どれもこれも、原則、基本的に、うまくきっちりと、平等に、合理的に機能するようにしておかないと、何となく、気が済まない、というような、かなりクリーン志向、というか、かなり合理的な平等志向の世界に変わってゆく、ということなのです。
こうした多くの人々の精神的な変化によって、一体、何が起こるようになるのか、というと、まず第一には、これまでの時代のように、私達の社会の中に、特別に優遇されているような偉い人達がいる、とか、特別に見捨てられているような弱者がいる、というような富の偏りというのが、だんだん、現在以上に、より少なくなってゆく、ということです。
第二には、こうした社会の変化というのが、これまでの時代のように、単に一部の人達が、そうした社会正義の実現を、難しい理屈でもって、声だかに叫んでは、何とか、出来るものから、少しずつでも改善してゆく、というような社会変化のスタイルから、大きく変わって、そうではなく、先ほど述べたように、もう少し先の時代になると、そうした欲求というのが、多くの人々の感性的、というか、精神的な非常に強い欲求に基づいているために、多くの人々が、そうした社会正義の実現を、少しでも、しっかり出来ていないと、「もう汚い洋服を無理やり着せられている」、とか、「もう家の中が、ゴミだらけで、掃除が行き届いていない」、というのと、ほとんど同じような感覚の強い嫌悪感や焦燥感を感じて、もう気が気でなくなるような異常な感覚に襲われるようになってゆくので、それゆえ、もうどうしても、待ったなし、仕方なしに、そうした社会正義の実現が、次々と、ものすごいスピードで行われるようになってゆく、というような、一種の理想世界に近づいてゆくことになる、ということなのです。
このように、もう少し先の未来になると、多くの人々の意識が変化して、現在の社会のように、特別な人間や組織の立場であるとか、特別な出来事の存在というものを、そう簡単には、あまり受け入れなくなってゆき、そして、よほどの特別な事情でもない限りにおいては、基本的に、何もかも、うまくきっちりと、平等に、合理的に、そうした政治や社会のシステムが機能するようにしておかないと、だんだん、みんな、精神的に気が済まなくなってくる、というような、かなりクリーン志向で、かなり合理的な平等志向の世界に大変化するようになってゆく、ということなのです。
アセンション後の世界では、お金は、単に豊かさや幸福の程度を表すための一種のバロメーターのような役割に、だんだん変化してゆき、それに代わって、「愛」や「理想」を究極の価値に置くような一種の理想世界が実現されるようになってゆく
このような三つの理由から、もう少し先の時代になると、これまでの時代のように、お金中心の経済社会から、言ってみれば、そうしたお金というのは、単に豊かさや幸福の程度を表す、一種のバロメーターのような役割に、だんだん変化してゆき、そして、そうした未来の行く末には、これは、まだ現代の時代だと、ほとんど単なる夢物語やお伽噺のようにしか感じられないのではないか、というように、私も思うのですが、そうしたお金以上に、人間にとって、もっともっと大切な存在、つまり、多くの人々の「愛の表現」や「愛の行為」であるとか、あるいは、それに基づく「理想の実現」というのが、次の時代のお金に代わる、新たな価値基準になってゆく可能性というのが、現在、だんだん高まってゆきつつある、ということなのです。
Cecye(セスィエ)
2011年3月14日 9:14 PM, アセンション後の世界 / 政治 / 社会、文化 / 経済