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いくら宗教だからって、自分で本当に正しいかどうか、事実かどうか、よく確認したわけでもないようなことを無理やり信じきるような必要性は全くないのではないだろうか?

 よく宗教では、「信仰が、とても大切である」、ということが強調されることが多いのですが、私は、客観的に見ていて、これは、少し間違っているのではないか、と思われる点があるので、それについて、少し述べてみたいと思います。

 

1、たとえ、かなり信用の置けそうな人や本の話であったとしても、すぐに全面的にその人や本の話を受け入れて、信じきるような態度は絶対にとらずに、せいぜい、そうした正しさや事実の証明や確認のできた程度に応じて、部分的に受け入れてゆけば、それで十分なのではないか

 まず第一には、これは、「信じる」という言葉についての根本的な理解の欠如であるとしか全く言いようがないのではないか、と私は思うのですが、とにもかくにも「信じる」ということは、実際に自分が、「正しいかどうか」、とか、あるいは、「本当に事実であるかどうか」、よく確認したわけでもないようなことを、何も考えずに真実であると 一方的に受け入れるようなことではない、ということです。

 そうではなく、基本的に誰かが言ったことや、あるいは、本に書いてあることであれば、まずは冷静に、「本当に正しいかどうか」、あるいは、「本当に事実であるかどうか」、ということをよくよく確かめた上で、その上で、「これは、絶対に正しい」、とか、「本当に事実である」、と確認できたものについて、確認できた程度に応じて、受け入れてゆけば、それで十分なのではないか、ということなのです。

 つまり、よく宗教であると、「とにかく、よく分からなくてもいいから、これを信じてください」、とか、「とにかく、信じてみないとよく分からないんです」、などというような説明を受けることが、非常に多いのですが、そのように、「まずは、よく分からなくても信じる」、というような態度は、基本的に絶対にとらずに、そうではなく、そのように他の人から言われたり、文章として、書いてあるものであっても、自分で、「本当に合っているかどうか」、とか、あるいは、「本当に事実であるかどうか」、ということをよくよく確かめてみた上で、その上で、「これは、絶対に合っている」、とか、「確かに事実である」、と確認できたものについては、その確認の程度に応じて、受け入れてもよいが、そうではなく、本当に正しいかどうか、事実であるかどうか、よく分からないものに関しては、「この部分は、かなり信憑性が高いが、この部分は、全然受け入れられないな」、とか、「まあ、ある程度は信じることにしよう」、などという程度に受け入れておけば、たいてい、それで十分であるし、また、「全然、正しさの確認がとれない」、とか、「全然、事実の証明ができない」、というようなものに関しては、それが、どんなに、いっけん、信用に置けそうな人物からの話であったとしても、「とりあえず、今の時点では、そういう話を聞いた、という程度の受け入れ方をしておこう」、とか、「まだ、よく確認できていない話がある」、という程度の受け入れ方にしておいて、原則、完全に信じきるような態度は、すぐには、絶対にとってはいけない、ということなのです。

 

2、アセンションの進行している現在、一昔前の「願望実現の法則」のように、あまりに強い信念やイメージの投影を自分の周りの物質世界に投影し続けていると、それが思わぬトラブルや失敗を呼び込むような結果になることもあるので、注意が必要である

 それから、もう一つは、よく「願望実現の法則」などと言われていて、「とにかく、何らかの願望実現のためには、何らかの強い信念やイメージを、何があっても強く強く持ち続けなくてはならない」、というような話を聞くことがあるのですが、これに関しても、結構、問題があって、高次元の世界から、この地上の世界を眺めていると、アセンションの進行に伴って、全地球的に、この物質世界の密度というのは、どんどん薄くなってゆきつつあるのですが、ところが、現在、この地球の一部の人々は、まるで悪魔の使いっ走りのようにアセンション阻止のために、この物質世界の密度、というか、硬さを強化するために、そうした強い強い信念や念力を放って、その人達の周りの物質的な密度を、一生懸命、硬くしようとしているように見える光景が、現在の地球では、結構、頻繁に見られるようなところがある、ということなのです。

 つまり、現在のようにアセンションの進行している地球で、あまりにも強い信念やイメージを持って、何らかの願望の実現を押し進めようとしていると、その人の周りに非常に硬い、その人独自の物質的な現実が生じ続けるようになってしまうので、その結果、残念ながら、そうした人というのは、いっけん、その人独自の願望の実現は出来て、個人的には、満足感は高いかもしれないけれども、あまり心からの幸福は感じられない、というような反アセンション志向の存在になっていってしまうようなところがある、ということなのです。

 ですから、これは、これまで、この地上の世界で言われていた「願望実現の法則」などと呼ばれるものとは、少し違う見解になるのですが、私は、アセンションが進行している現在、あまりに強い信念や念力やイメージの投影のようなことをしていると、そうした人というのは、思わぬトラブル、というか、失敗に巻き込まれてしまうことがあるので、少し注意した方が賢明なのではないか、というように感じております。

 

 

 追伸

 つまり、幸福主義的な発想で、自分の幸福や周りの人々の幸福の実現のために、そうした、ある程度、強い信念やイメージの集中をしているのであれば、それほど問題ないのですが、それが弱くて、「周りの人々の幸福なんてあまり眼中になくて、とにもかくにも自分だけが幸福になれればよい」、とか、「自分の幸福のことも周りの人々の幸福のことも、あまり考えていなくて、とにかく、何らかの結果さえ出せればよい」、というような強い信念やイメージを持ち続けることは、現在の地球の状況では、非常に有害である、という話です。

 

 ちなみに、このブログでは、基本的に読む人の自由意志をかなり尊重していて、それぞれの人が、「自分が読みたい」、と思うところを自由に読めばよいのではないか、というようなスタイルになっているので、それゆえ、まだ、一度も、特に「信じてください」、とか、「絶対の真実だと受け入れてください」、というような文章は載せたことがありません。

 それと現在の日本の教育であると、特に歴史教育などにおいては(他の分野についても、多かれ少なかれ、ほとんど同じですが)、民主的な方法で選ばれたとは全く思えないような、はっきり言うと、どこの誰とも全くよく分からないような内輪の人々(その意味では、「学会」も全部、そういう立場になりますが・・・)が、いつの間にか決めた教育内容を、多くの子供達に対して、ほとんど何の選択権もない状態で、それが、まるで絶対的な真実であるかのように、無理やり試験付きで教えてゆくようなところがあるのですが、本当は、こうした内容に関しても、たとえ、子供であったとしても、民主主義国の市民であるならば、「それが、本当に正しいかどうか」、とか、あるいは、「本当に事実であるかどうか」、ということを疑ったり、調べたり、考えたりすることは、基本的に自由であるべきなので、本当は、一方的に強制されるような筋合いのものではないのではないか、というように、私は率直に感じております。

 

Cecye(セスィエ)

2011年9月11日 9:07 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 現在のアセンションの状況



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