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知ることと人間性の関係について Part 9

②一昔前の時代までは、高度な専門技術を身につけているような人は、宗教的な素養も身につけていることが多かった

 二つめは、これは今述べたような話とは、少し違った内容の話になってくるのですが、少し前の時代までは、現代のような時代とはかなり違って、宗教と学問の間の仕切りが、かなり曖昧、というか、もっとはっきり言うと、宗教であっても、学問であっても、ほぼ同じような教会や神社仏閣や宗教大学のような所で学んだり、研究していることが多かったので、たいてい、そうした時代のよくある人間の姿としては、医療や建築や土木技術などの何らかの専門分野のプロフェッショナルのような人は、それと同時に何らかの宗教的な素養も身につけていることが、非常に多かったようなのです。

 つまり現代であれば、普通、学問の世界というのは、宗教の世界とは、ほぼ完全に切り離された教育制度になっていることが多いのですが、ところが少し昔の時代まではかなり違っていて、例えば、医療を学ぶ人は、一緒に宗教的な教養も身につけなくてはならないとか、仏教的な修行をした人が、その時代の最新の学問や土木建築の技術も身につけていることがあるとか、哲学を学ぼうとすると、どうしても一緒に宗教家になる道も志さないといけなくなるなどというように、はっきり言うと、現在のような教育制度になる以前の時代には、たいていの国では、宗教的な修行と、そうした学問や科学技術の研究や習得が、ほぼ一緒にしなくてはならないことが多かったようなのです。

 ただし、よく調べてみると、そうした時代であっても、現代に名を残すような偉大な発見や発明をした人の中には、結構、マニアックな研究をしていたり、また、ちょっと引きこもりっぽかったり、奇人変人に近いような人も時々いたようなので、そうした人がすべてがすべて、素晴らしい人格者であったなどとは、なかなか言えないようなところもあるのですが、とにかく、はっきり言えることは、要するに現代のように宗教的な修行や精神的な素養と、学問や科学技術の世界がある程度、明確に切り離された社会制度になっているような世の中では、知性的にも技術的にも非常に優秀で、しかも人間的にも素晴らしい人々が大勢いる一方で、確かに知性や技術のレベルはある程度高いけれども、時々、人間的には、多少引きこもりっぽかったり、奇人変人的な人物もいるかもしれない、ということは、ある程度、客観的に理解しておくべきことなのではないか、ということです。

※現代の社会では、基本的にその国や、その分野に関する法律や規則や倫理規範などを犯さずに、社会にとって、有益な貢献をしているのであれば、個人の性格や行動のあり方については、それほど問題視しないことが多いのですが、ただし逆に言うと、そうしたものを著しく逸脱してしまうと、あちこちで様々な問題が発生することになってしまうわけです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2019年5月10日 9:03 PM, 人生観、世界観 / 宗教、道徳 / 教育 / 歴史 / 知恵、正しさ / 社会、文化 / 科学、テクノロジー



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