Light Symbol

絵や像の問題点について Part 3

4、人形の魔術について

 さらに、もっと不思議な話について、述べてみたいのですが、歴史を遡ると、東洋でも、特に日本を本家とする、ちょっと変わった、神仏の光を奪う魔術の一種のようなものがあるのですが、それが、「人形の魔術」と呼ばれるような黒魔術になります。

 古今東西問わず、現代においても、写真や人形を見ると、単純に喜んで、集める人達と、そうではなく、何となく、一種独特の恐怖心や不信感を持つ人々の、大きく二種類の人々がいるものなのですが、それというのも、こうした人形の魔術というのは、今から数千年昔のタイムテロや、あるいは、それ以前の遥か昔のカオス時代にまで、そのルーツをたどることができるほど、霊的には、かなりポピュラーな黒魔術であるからなのです。

 例のごとく、細かく話すと非常に長い上に、結構、恐ろしいドロドロした話になるので、大まかに、はしょって述べたいと思います。

 昔々、いにしえのユートピアの時代が終わって、その後、地球上の多くの人々が、霊的には、ほぼ恐怖支配に近いような、呪術崇拝の原始生活をしていた頃の時代に、その時代の闇の勢力の連中が、多くの人々が、肉体的に亡くなったとしても、そう簡単には、五次元以上の本当の天国の世界には行けずに、死んでも、本人としても、全く、よく分からないうちに、すぐに地上の世界に舞い戻ってきて、何回も何回も、不毛の輪廻を繰り返さざるを得ない状況にするために、多くの人々の魂を、いかに強い恐怖支配のうちに、霊的に完全に封印し尽くすか、ということに、力を注いでいた時代がありました。

 その際に、彼らが考えた方法は、大きく四つありました。

 まず一つめは、これは、詳細は、アセンション・シリーズに述べているのですが、とにかく、当時の宗教支配勢力、もしくは、権力者に逆らった人間に対して、現代人の感覚からすると、全く想像も絶するような、ものすごい殺戮や拷問を行って、多くの人々の潜在意識の中に、そうした人々に対する、ものすごい恐怖心や畏怖心を作ることによって、単に彼らに形だけ従うのみならず、心の奥底から、彼らへの強い忠誠心を持たせようとした、ということです。

 二つめは、これは、現代人には、だんだん分からなくなってきていることなのですが、ある種の洗脳教育によって、それ以前の時代に活躍した、偉人や聖人のような人々の話を、巧妙に、そうした人々とは、全く関係ない後世の権力者や宗教家の人々の話に、うまくすり替えて、多くの人々の信頼や愛情の念が、彼らに向かうようにすると同時に、今度は、反対に、そうした後世の権力者や宗教家の人々が、裏で、いろいろ行っていた、彼らにとって、都合の悪い悪事の数々を、そうした、いにしえの時代の偉人や聖人の話にすり替えて、多くの人々の不満や猜疑心が、そうした人々に向かうようにでっち上げるようなことを、結構、頻繁に行っていました。

※こういう信仰形態、というか、信念体系を持った人々は、死後、本当の天国ではなく、それとは似て非なる疑似天国や疑似地獄と、地上の世界の間を、短期間のうちに、ぐるぐる生まれ変わるような大変な事態になります。

 三つめからが、本題になってくるのですが、その際に、彼らが用いた決定的な手法が、いわゆる、木や石などで、人間や神仏の像を作って、その中に、彼らにとって、都合の悪い人間の魂を、ある種の呪詛(じゅそ)によって、封じ込めてしまい、そうした人間や神仏の活動の自由や霊力の大半を奪い取るようなことをしていました(ですから、特に中世以前の時代には、洋の東西を問わず、そうした魔術のような話が、かなりの信憑性をもって、信じられていたわけです)。

 それから、第四には、これも、かなりおかしな話になるのですが、実は、そうした、いにしえの時代の人々が、そうした人形を、あたかも本当の人間や神仏のように信じ込んでしまった理由の中には、例のタイムテロとの関連があって、実は、だいたい、20世紀後半から、22、23世紀頃の科学技術を使った、いわゆる、人間そっくりのロボットや、3D技術による、まるで本物の霊のような存在の活動や、それから、ある種のマインドコントロール技術のようなものとの関連があった、というような裏の事情があったのです。

 もう少し具体的に言うと、何も知らない原始的な人々の前に、その時代の人々とそっくりの変装をした人間やロボットが出てきて、ペラペラ話し出す、とか、3D投影で、空間に、まるで本物の霊のようなものが出てきて、怖がらせる、とか、立体音響の技術で、自分の頭の中や胸の中から声が聞こえる、とか、何もない空間から声が聞こえる、などというようなことが起きると、昔の人々の感覚としては、かなり大混乱してしまったのではないか、ということなのです。

 現代人の中にも、「人形は、生きている」、とか、「仏像には、仏の魂が宿っている」、とか、「絵や人形が動いている世界がある」、とか、「人形を処分すると祟りがある」、などというような考えを、かなり根深く持っている人々がいるのですが、それもそのはずで、実は、そうした考え方というのは、多くの人々が、自然自然のうちに持つようになったのではなく、そうした闇の勢力の人々によって、ある種の恐怖信仰、もしくは、盲信、狂信として、意図的に作られていったようなところもあったのです。

 

 さて、それでは、そうした、ある種の人形信仰に関して、いったい、どのように考えてゆけばよいのか、というと、だいたい、次のような二つのことが言えます。

 まず一つ目は、これは、単純なことなのですが、こうしたマイナスの意味での人形信仰のようなものは、人間の心の奥の恐怖心によって、作られているようなところがあるので、基本的には、多くの人々が、そうした人形のような存在に対して、あまり強く恐怖心を持たない限りは、そうした人形の魔術というのは、あまり効かないようなところがある、ということです。

 第二には、これは、少し難しいのですが、特に日頃から心の中に淋しさや空しさのようなものを抱えがちな人というのは、本当は、人間に対して、抱くべき愛情や信頼感や欲求などを、人間以外のもの、例えば、動植物や、そうした物、特に機械や人形などに向けてゆきがちな傾向があるのですが、ところが、それが行き過ぎると、霊的には、そうした機械や人形などに、その人の意識の一部が乗り移って、まるで、その人には、そうした機械や人形が、本物の人間、もしくは、本物の神仏のような意識を持ったもののように感じられることがあるようなのです(こうしたケースの場合、他の人々からは、全然、理解できないことが多いです)。

 ですから、こういう場合には、これは、その本人は、ちょっと厳しい話になってしまうのですが、できれば、もう少し冷静に客観的な考え方を取り戻して、もし、自分が、本当は、人間に向けるべき愛情や信頼感や欲求を、あまりに、それ以外の代わりのものに向けすぎていると感じた場合には、もう一度、そうした愛情や信頼感や欲求を、これは、身近な人でも、新たな友人や恋人のような人でも構わないのですが、現実の人間に向け直して、本当の自然な人間としての幸福感を取り戻すような努力を始めることが、とても大事なのではないか、というように感じております。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2013年4月10日 9:08 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 宗教、道徳



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