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多数決の原理について Part 1

 前に政治のことを書いていて、一番、重要な「多数決の原理」のことが、まだ書き終わっていないので、今回から、多数決の原理について、書いてみたい思います。

※この文章は、何ヶ月も前に書いて、書きかけのまま、放ったらかしになっていたものなのですが、「何も載ってないと寂しい」、という声を頂いたので、「とりあえず、今ある文章を載せる」、ということで、アップしておきます。例のごとく、この文章も、最後まで、まだ出来上がっていないので、不定期の続きのアップになります。

 

1、政治や経営の世界に、多数決の原理を単純に導入しすぎると、なぜか最も正しいと思われる結論にはたどりつかずに、大失敗してしまうことがあるので、たいへん注意が必要である

 まず第一には、これは、いっけん、非常に厳しい話になるのですが、現在までの地球の歴史を調べてみる限り、この人間社会においては、多数決の原理を用いて、物事を決めようとした場合には、原則、十中八九は、まずは、本来、求めているような正しい結論には、たどり着かない、というような、非常に厳しい現実がある、ということです。

 これは、みなさんの身近な話ばかりでなく、たとえば、歴史を振り返ってみると、平和を望んでいる民主主義国が、突然の独裁国からの軍事的な奇襲攻撃を浴びて、大敗北を喫するようなことがあったり、あるいは、これは、少し前の社会主義国では、頻繁に起こったことであるのですが、理想社会を目指して、できるだけ多くの人々が、経営に参加できるような共同経営の団体運営にしておくと、いつの間にか、非常に甘い経営判断ばかり繰り返すようになって、ライバル企業に完全に差をつけられるような状況になったり、場合によっては、完全に経営破綻してしまうような話が、非常に多かったのですが、それもこれも、元をたどると、民主主義的な多数決の原理を、あまりにも政治や経営の世界に導入し過ぎると、たいてい、最も正しい判断には行き着かないことが多いので、やがて、どこかの時点で、大失敗してしまう、というような、多数決の原理に関する根本的な問題点に起因することが多い、ということなのです。

 それでは、なぜ、いっけん、かなり理想的な社会を築けそうな、多数決の原理が、結果として、多くの人々を路頭に迷わすような大失敗につながってしまうのか、というと、その理由としては、大体、以下のような二つの理由があげられます。

 

1、多数決に参加する人々全員が、最も正しい現実の情報と、それに対する解決策に熟知していない場合には、原則、多数決の結果は、常に、絶対に選んではいけないような、間違った決定になりがちである

 まず第一には、これは、よく考えてみないと、分かりづらいのですが、こうした多数決の原理で、最も正しい結論にたどり着ける前提というのは、そうした多数決に参加している人々全員が、最も正しい現実の情報と、それに対する解決策に熟知している場合に限られている、ということです。

 それゆえ、当然のことながら、たいていの場合、そうした前提が、完全に整っているケースは、非常に少ないので、結果として、多数決の結果、本当は、絶対に選んではいけないような、間違った決定を下してしまうことが、非常に多い、ということです。

 

2、単純な多数決の議決だけで、国家や企業や団体の運営をしていると、責任の所在が曖昧になったり、甘い判断が多くなったりして、現実には、大きな失敗や混乱をもたらすことが多い

 第二には、これも、結構、難しい問題であるのですが、そうした形で、多くの人々が、多数決をする際には、たいていの場合、次のような二つの重要なファクターが、完全に抜け落ちていることが多いのです。

 その重要な二つのファクターとしては、まず第一には、大きな決断は、そうした多数決の場で、みんなで下せばよいとしても、その後、いろいろ細かな状況の変化があった場合に、いったい、誰が、どこまでの裁量権をもって、その場で、きちんとした判断を下すのか、ということと、また、そうした決断を下した結果、良くなったり、悪くなったりした功績や責任を、いったい、誰が負うのか、ということが、かなり不明確なことが多い、ということです。

 第二には、これは、もっと大きな問題になってくるのですが、これは、現実の実態を調べてみれば、誰でも、はっきり理解できるような内容なのではないか、と私は思うのですが、人間というのは、たとえ、いっけん、ほとんど同じような知性や力量の人間のように思われたとしても、その人の置かれた状況が、より危険で厳しく、より金銭が細かく絡んでいるような状況に置かれているような人の方が、多くの人々の単純な予想に反して、より切実に、よく情報を集め、また、よく考えた上で、寝る間も惜しんで、より熱心に、よく働くようなところがあるので、はっきり言うと、単純に、「みんなで理想世界を作ろう」、などと、気軽に言っている人達よりも、そうした、より厳しい状況に置かれている人の方が、時間の経過と共に、はるかに知性的にも高く、また、はるかに能力的にも高くなってゆくので、その結果、より大きな成果をあげてゆきやすい、というような人間社会の特性があるのです。

 つまり、いくら、多数決の結果、その時点では、最高の決断を下したとしても、そうした多数決制をとっていない、どこかの厳しい辺境みたいな場所の、一匹狼みたいな人間が、寸暇を惜しんで、努力し続けたり、あるいは、かなり独断的なリーダーが、いっけん、自分勝手に、次々と「改革」と称する、軍事的な冒険や、経営革新のようなことを続けている場合には、そうした民主体制の人々は、気がつくと、自分達としては、全く思いもよらないような形で、そうした軍事的な野心家や、大起業家のような人物に、軍事的、あるいは、経済的に、すっかり大敗北して、支配下に入れられてしまうことが、これまでの歴史においては、非常に多かった、ということなのです。

 こうした二つの観点から考えてみる限り、単純な多数決の原理を採用している民主主義国というのは、そうした国の中では、それなりの幸福な社会を築いてゆくことができるのですが、ただ、現実には、いつの間にか、そうした民主主義国というのは、軍事的、あるいは、経済的には、だんだん二流、三流の状況に傾いていってしまうことが、これまでの歴史においては、非常に多かった、ということなのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年10月12日 9:22 PM, おすすめ記事 / コラム / 政治 / 社会、文化 / 経済



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