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「和歌」や「俳句」といった一昔前の詩歌は、現代の感覚で言うと国民文化というよりは、せいぜい一部の有閑階級の間で流行った、一種の歌謡曲のようなものだったのではないのか Part 5

多くの人々の単純な尊敬心や思い込みとはかなり違って、国家の権力者のような人達に、詩歌のような芸術や文化の良し悪しを選ばせていると、いつの間にか、その国の権力者の人々にとってのみ都合のよいような、かなりいい加減な偏向した内容の芸術作品ばかりが最高の芸術や文化として、世間でもてはやされるようになりがちなのだが、実際には多くの人々は、それによって、それほど大きな感動や悦びや楽しみを味わっているわけではないケースがほとんどである

 実際、一昔前の時代のように国家の権力者に、彼らの好きなように詩歌の良し悪しを選ばせていると、「国家の権力者のことを批判するような詩歌は絶対に載らずに、彼らを褒め讃えるような詩歌ばかりが選ばれる」とか、「毎日の生活がきつくて大変だとか、税が重くて、貴族の連中が恨めしくて仕方ないなんて詩歌は絶対に載らない」とか、「貴族は、いつも高尚な素晴らしいことばかりしているような印象の詩歌ばかりが選ばれる」とか、「隣の大国から来るものは、遅れた我が国と違って、いつもものすごく進んでいて、素晴らしいなんてことは絶対に言わせずに、自分の国は、ものすごく歴史と伝統のある素晴らしい国だというような詩歌のみが選ばれる」とか、「この前の戦争や内乱も、とても大変だったとか、この国は、いつも戦争や権力闘争が絶えないなんてことは絶対に言わせずに、この国は、いつも平和で美しい穏やかな国だというような詩歌のみが選ばれる」とか、「権力者のものすごい贅沢や妾(めかけ)の人数なんて絶対に書かせずに、権力者は、いつも真面目に寝る間も惜しんで政務に取り組み、神仏の覚えもめでたい、とても偉大な方だというような詩歌を必ず作って載せさせる」とか、「学問や技術力では、とてもではないが、外国には太刀(たち)打ちできないから、せめて自然が優れて、優美で美しいというような詩歌でも、たくさん載せてさせておこう」などというような具合に、多くの人々の単純な思い込みとはかなり違って、結構、その時々の権力者の都合で好き勝手に編集されたり、作り替えられたりしてしまうようなところが非常に多かったのです。

 その際に、そうした権力者の立場として非常に重要なのが、多くの人々の本音の意見や感想をそのまま発表させても、それは、さも全く見当外れの教養のない田舎者の見方であるかのように思い込ませるために、ものすごく偉そうに見える学者や宗教家や教師のような人達を全面に押し出してきて、普通の人々から見ると、はっきり言って、何の価値も魅力も見い出せないようなものに対して、「これは○○時代の○○という、ものすごく偉い方が作られた、ものすごい品です」とか、「学のない田舎者の君たちには全然分からないかもしれないが、この○○という言葉の言い回しは、○○技法を駆使した、本当にものすごい天才のような人物にしか言えなかったような天下一品の芸術なのです」とか、「これの良さが分かるのは、本当に目利きの学識の高い人だけです」とか、「これが分かる人はインテリのエリートで、これが分からない人は無学の馬鹿なんです」などというように、一種の思想誘導をしてゆくことが非常に多かったのです。

 つまり、こうした形で普通の人々の感想としては、「訳が分からないのでつまらない」とか、「正直言うと、何も面白いと感じない」とか、「一体、これのどこがいいの?」と聞きたくなるようなものに対して、そうした普通の人々から見ると、ちょっと偉そうに見えるような学者や宗教家や先生のような人達が、「これは、ものすごく素晴らしいものです」とか、「これの良さが分からないのは、あなたの教養がないからです」とか、「テストの結果でよく分かるように、あなたは馬鹿だから、これの本当の価値が分からないんです」などと言って、さもものすごい価値や魅力があるかのごとく多くの人々に思い込ませようとしてくるところがあるのですが、ところが、よく考えてみると、実際の多くの人々の本音の意見や感想としては、「へ〜、それで、これの一体、どこがいいの?」とばかりに、本当は何の価値も魅力も感じていないことの方が遥かに多かったということなのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年6月27日 9:32 PM, コラム / 政治 / 教育 / 社会、文化 / 芸術、美



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