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常に感謝の心を忘れない Part 17

⑤感謝の原理が行き過ぎて、いつの間にか自分が、暴力や虐待の被害者にされそうになった際には、躊躇せず、何らかの社会的に正当かつ有効な対策を講じる

 五つめは、今度は多少、逆説的な話になるのですが、世の中には、こうした感謝や恩返しの話を盾に取って、機会さえあれば、人を荒っぽくこき使って、精神的な支配下に置こうとしたり、また、場合によっては、脅したり、いじめたり、虐待や暴力を働くような輩もいないとは限らないので、こうした場合には、そうした口先だけの感謝や恩返しの話はいったん置いておいて、とにかく、いかにして、その時点での被害や損害を減らし、悪影響を最小限にとどめるか、ということが、とても大切になってきます。

 つまり、こうした感謝の原理や、そこから派生する「報恩」や「恩返し」の理屈を使うと、客観的には、どう見ても、いじめや虐待や、暴力や奴隷的扱いに過ぎないのに、それを正当化して、あたかも、とても大切な親孝行や、主人への奴隷的労働や、何らかの精神的奉仕や、徳を積む行為のように思わせることもできるということなのです。

 ですから、いくら、こうした感謝や愛の心で生きることが大切であると言っても、それは、そうしたいじめや虐待や、暴力や奴隷的隷属の原理ではないので、いつの間にか自分が、そうした状況に置かれているのではないかとか、あるいは、自分の知っている宗教の信者や会社の社員や、家庭の妻(夫)や子供が、そうなっているのではないか、と思われた場合には、あまり躊躇せずに、何らかの社会的に正当かつ有効な対策を講じた方が賢明だと思われます。

 

⑥一人一人の働きや役割相応に感謝の気持ちを伝え、それにふさわしい報酬やご褒美を与える

 六つめは、これは、ちょっと変わった話になるのですが、現在の世の中を見ていると、「どう見ても、この人と、この仕事や出来事は全然関係ないのに、いつもこの人が偉いとか、素晴らしいなどと褒められたり、感謝されたりしているので、おかしいな」とか、「どう考えてみても、この労働は、この人達の手柄として褒めて、それなりの報酬が支払われるべきなのに、なんで全然関係ない別のある人が褒められたり、高給取りになっているのかな」とか、「なんであの人は、いつも一生懸命働き、それだけの成果も上げているのに、年齢やら出身やらで、いつまでも報われずに全然別の人が、その手柄を横取りして褒められたり、感謝されたりしているのかな」というような話が、まだまだ多いようなのです、

 これは、先ほども少し述べましたが、基本的に感謝の気持ちは、その何らかの行為を行ってくれた人に対して、その客観的な程度に応じて持つべきなので(そうしないと、あちこちずれて、必ず世の中がおかしくなります)、こうしたことは絶対に適当にせずに、「Aの行為をしてくれたBさんには、Aの件で感謝の気持ちをしっかりと伝え、Cの行為をしてくれたDさんには、Cの件でしっかり感謝の気持ちを伝える」とか、「ものすごく助かり、嬉しかったEさんの件には、それだけの大きな感謝の気持ちを伝え、それほどではなかったが、とても嬉しかったFさんの件には、やはり、その程度に応じた正直な感謝の気持ちを伝え、それから特に別に何の関係もしていなかった人には、当然のことですが、別に特段の感謝の気持ちを伝える必要もない」とか、「何らかの活動をしてくれた組織や、そうした組織の長や代表者の人には、当然、それなりの感謝の気持ちを伝えるべきだが、それとは特に関係ない組織や、そうした組織の長の人には、別に特段の感謝の気持ちを伝える必要はない」などというように、単に盲目的に感謝や愛の気持ちを持てばよいなどとは考えずに、基本的には、もっともっと一人一人の人の存在や、その人の仕事や役割に関心を持って、そうした一人一人の人や、その人の具体的な仕事や貢献の程度に応じた、きめ細かな感謝や、ねぎらいの気持ちを伝えることや、それから経済活動を伴う場合は、それ相応の報酬や、ご褒美の授受を行うべきなのではないか、ということです。

※ただし、これは、その人や、その生き物がいなくなったり、あるいは、何らかの物がなくなってから気付くことが多いようなのですが、人間社会では、「その人が、そこにいてくれるだけで幸せ」とか、「一緒にいるだけで安心で楽しい」とか、「結果としては、何もできなかったかもしれないけれど、ある人は、何らかの助けを一生懸命やろうとしていてくれていた」とか、「人目には、全然目立たないような存在だったけれども、その人や生き物が、みんなをリラックスさせて、楽しませるようなムードメーカーになってくれたお陰で、とても良い人間関係や雰囲気作りが出来ていた」などというように、ちょっとそう簡単には、単純に評価しづらい内容もあるので、そうした縁の下の力持ち的存在への感謝の気持ちは、やはり、それ相応にしっかり気づき、持つべきなのではないか、というように感じています。

※これは、「だから、お前は何もしてない」とか、「お前なんて、世の中にいらないんだ」というように、精神的に他の人を裁いたり、いじめたりするような原理ではないので、特に子供や病人や老人のような社会的弱者の立場に置かれがちな人に対しては、もっと単純に、できるだけ一緒に慈しんで楽しく過ごすとか、少しでも、お互いに助け合い、愛し合い、より良い人間関係を築いてゆくような愛の立場をとるべきだと思われます。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2013年11月14日 9:03 PM, 宗教、道徳 / 愛について



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