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知ることと人間の欲求の関係について Part 13

 これに関しては、次のような二つのことが言えます。

 まず一つめは、これは少し難しい問題を含んでいるのですが、人間の心の動きというものをつぶさに観察してゆくと、例えば、ある人が一見、その人とは全く関係ない、赤の他人のような別の人々や生き物達に対して、かなり深く同情して、「何らかの手助けがしたい」と思っていたとしても、そうした気持ちの奥をよくよく深くうかがってゆくと、本当に相手を赤の他人のような別の人々や生き物達と考えているのではなく、実際には、相手をまるで自分自身の一部のように感じてゆくような、要するに他の人々や生き物達と自分を、ほぼ同じような存在として、自己同一視してゆくような意識のあり方が見られるものなのです。

 そうすると、確かに一見、自分とは全く何の関係のない、他の人々や生き物達のために「何かがしたい」と思ったとしても、霊的あるいは精神的には、本当は自分自身の欲求を叶えているのと、あまり違いがないようなところがあるのではないか、とも言えるようなところがあるのです(別にこうした感覚が悪いというわけではないのですが・・・)。

 そうすると、人間として、いったいどこからどこまでを、まるで自分自身ように考えることができるのか、ということが、ここでは非常に重要になってくるのですが、人類の歴史を見ると、あまり教育を受けることなく原始的な生活をしているような人々は、わりと単純に自分に身近な家族や親族や部族の人々を、ほぼ自分自身と同じように考えていることが多いようなのですが、それが、やがて歴史を隔てるにつれて、何らかの宗教や神話を元にした、もっと大きな人間の集団である民族を、なかば自分自身のように考えるようになってゆき、さらに仏教やキリスト教やイスラム教のような世界的な宗教の感化を受けるようになると、もっと大きな同胞愛や人類愛のような形で、人種や民族を超えて、もっと多くの人々を、まるで自分自身のように感じられるようになってゆくことが多いようです。

 ところが、ここで問題になるのは、たとえ、そのような形で非常に多くの人々の間で、かなり大きな規模で、お互いに自己同一視し合うような人間関係になっていったとしても、世の中の実態を見れば、よくわかるように、なかには、そうした多くの人々の中に混ざって、嘘をついたり、盗みや喧嘩や仲違いをしてゆくような、かなり利己的な人間も必ずいるようなところがあるのです。

 そうすると他の人々を、まるで自分自身のように考えるような非常に親切な人々がいる一方で、いくら相手から、そのように強く思われたとしても、全く自分の都合しか考えないような人々がいることもあるので、世の中では、時々、あちこちで問題が起きることがあるのですが、こうした点に関しては、特に霊的な物の見方ができるような人は、非常に注意が必要なところがあるようです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2017年2月16日 9:03 PM, 愛について / 知恵、正しさ



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