③肉体的中庸の大切さについて
第三には、これは、あまり考えたことがないかもしれないのですが、普通、よほど自然に恵まれた所でもない限りは、人間が生きるために、どうしても最低限、この程度は必要であると思われるような食料や衣服や住居のようなものがあると思われるのですが、要するに、いくら宗教的、道徳的な愛や感謝の生活が大切であると言っても、こうした人間がある程度、快適に幸福に生きるために最低限必要な生活の糧を得て、人間としての生存を確保することや、そのための労働や努力は、もっと重要である、というように単純に割り切った精神的な態度を持つことも、時には、とても重要なのではないか、ということです。
つまり、いくら人間が、精神的な生き物であると言っても、基本的に人間は、自然界の中に生きる肉体を持った、たくさんの動物の一種に過ぎないというのは厳然たる事実なので、いくら霊的、精神的に「愛と感謝の生活」や「信仰、信仰」などと心の底から思い続けたとしても、現実にお腹が空けば、何か食べたくて仕方なくなるし、寒過ぎたり、暑過ぎたりすれば、不快感を感じるし、またある程度、肉体的に成熟しても、いっさい性的に何ら満たされない生活を送っていれば、いろいろな欲求不満やストレスが溜まってくるだろうし、それから病や怪我などで肉体的苦痛や不安感にさいなまれていれば、現実には、とてもではないが、精神的な理想よりも、何らかの治療や回復を望まざるを得なくなるようなところがあるのです。
つまり、宗教的、道徳的な愛や感謝の精神の大切さというのは、この物質世界では、広大な自然界の中のたくさんの動物の一種に過ぎない人間という立場をよくわきまえて、人間として生きるために、最低限必要な食事や衣服や住居といった生活の糧をしっかり確保したり、また、それを得るための仕事や作業をしっかり行っていったり、さらには、そうした多くの人々が生きる社会の中での人間としての権利を求め、維持してゆくための努力をしっかり行った上で、より霊的、精神的に優れた生き方をしてゆくための、単なる精神的な指針に過ぎないようなところがあるので、そうした肉体的な基盤、あるいは、肉体的中庸の大切さというのは、しっかり心に刻んでおく必要があるのではないか、ということなのです。
Cecye(セスィエ)