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「正しさ」について Part 2

2、現実の世の中では、「正しいか、間違いか」というような概念自体が不適当で、「どれだけリラックスして、楽しい時間が過ごせたか」とか、「どれだけ親しい人間関係が築けたか」というような、たわいのない人間的な楽しみや、仲の良さのようなものに価値のあることも、意外と多いものである

 第二には、これは、あまり考えたことのある人は、少ないかもしれないのですが、実は、「正しい」とか、「間違い」というような概念自体が不適当であるというようなケースが、世の中には、結構多いということです。

 例えば、よく学校で教わった価値観だと、何にでもマルか、バツがあるかのような錯覚をしがちなのですが、ただ、多くの人々の仕事や生活の様子を見ていると、「この時間は、絶対に真剣に仕事や学習をして、一定の成果をあげないといけないが、この時間は休み時間なので、別にこれと言った正解なんて全くなくて、自分の気分の赴くまま、適当に好きなことをして過ごせばよい」とか、「ここは真剣な交渉や会議の場なので、正確な発言を心掛けたり、一定の成果を上げるように努力しなくてはならないが、そうではない休憩や個人的な付き合いの際には、逆に、たわいのない身近な話をして、より楽しくて、親しい人間関係を作るようにした方がよい」などというように、現実の世の中では、真剣に何らかの正解を出したり、一定の成果を上げなくてはならない時と、そうではなく、言ってみれば、できるだけ気楽にユーモアの富んだ会話や楽しい交流をして、その場の雰囲気を和らげたり、より親しい人間関係を築いた方がよい場面も、結構多かったりするものなのです。

 そうすると、こうした場合には、基本的に「正しいか」、「間違っているか」というような概念自体が間違いで、そうではなく、どちらかと言うと、「どれだけ疲労やストレスが減ったか」とか、「どれだけ気楽な楽しい時間を過ごせたか」とか、「どれだけ、よりリラックスした楽しく親しい人間関係を築けたか」というようなことの方が、もっと重要視されるような状況になっているということです。

 

3、世の中では、時々、二つ以上の相対立するような仮説や意見の正邪を巡って、さまざまな議論や調査が行われることがあるのだが、時には、「どちらも正しい」とか、「どちらも間違っている」というような結果になることも多々あるものなので、注意が必要である

 第三には、これは、非常に不思議な話になるのですが、例えば、ここに、いっけん真っ正面から全く相対立するような二つの学問上の仮説があるとして、それに対して、学問的な正しさというものをとことん追求してゆくと、なぜか驚いたことに、「どちらかが正しくて、どちらかが間違っている」というような結果にはならずに、「どちらも正しかった」とか、「どちらも間違っていた」というような結果になることが、時々あるものなのです。

 このように世の中では、いっけん相対立するような二つの意見や考え方に関して、「いったい、どちらが正しくて、いったい、どちらが間違っているのか」ということを巡って、多くの人々が、さまざまな議論を巡らしたり、あるいは、さまざまな実験や調査によって、その正否を確かめようとすることが多々起きるものなのですが、ところが、しばらく、そうした議論や実験や調査を続けているうちに、「そもそも、その議論や実験や調査の基準、もしくは、前提そのものが間違っていた」とか、「よくよく調べてみると、いっけん別々の二つのものは、根っこの部分で完全につながっていた」というような状況になることも、時々あるものなのです。

 つまり、この場合、おそらく、そうした議論や実験や調査自体に意味があったことは、確かに事実なのでしょうが、ただ結果としては、そうした議論や実験や調査の、そもそもの土台自体が間違っていた、ということなので、世の中には、時折、そうしたことも起きることがあるということは、ある程度、知っておいてもよいのではないか、と思われます。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年11月7日 9:03 PM, 知恵、正しさ



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