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「愛」について Part 17

 世間は、クリスマス一色ですが、昨年も、このブログでは、「クリスマス」と言っても、かなり変わった「イエス」の話を書いていましたが、今年も相変わらず、クリスマスとは、ほとんど関係ない「愛」の話の続きを、あと、何回かに渡って、載せてゆきたいと思います。

 

2、宗教的、道徳的な「愛」のあり方と、この世的な「愛」のあり方が、真っ正面から、ぶつかった際には、決して、安易に強硬的な態度をとらずに、神仏の意思は、十分に尊重するにしても、できるだけ、現代的な視点で、多くの人々が、最も平和に幸福に繁栄できるような「愛の実現」を目指してゆくべきである

 第二には、これは、特に数百年の間、どの国や地域でも、非常に問題になってきた内容になるのですが、要するに、昔からの宗教や道徳で説かれてきた「愛」(もしくは、慈悲)の内容と、それから、特に近現代の民主主義や自由主義の勃興や、主として、産業革命以降の物質的な豊かさの実現による、この物質社会における「愛」の内容が、いろいろな所でぶつかり合うことが多いために、いまだに、現在の時点でも、「これが、最も適切な愛の実現だ」、とか、「これが、人類の社会における最善の愛のあり方だ」、というような、最善の愛の形が、はっきりと見えないようなところがある、ということなのです。

 これは、はっきり言って、今後も、その時々の、その国や地域の社会のあり方によって、「神」や「仏」というよりかは、そこにいる多くの人々が、自分達の意思で、一つ一つ、しっかり責任をもって、決めてゆかなくてはならないような内容になってくる、と思われるのですが、これに関しては、現在の時点では、次のような三つのことが言えます。

 まず第一には、とかく、そうした宗教や道徳の立場と、現実の多くの人々の意見や考えが食い違いやすいのは、ともすれば、宗教的な立場の人々が、「これは、神の言葉だ!」、とか、「これは、絶対的な神の意思だ!」、などと言って、多くの人々の現実の仕事や生活上の不便や不幸というものを無視して、一方的に、いろいろなことを押し付けがちなところにあるのではないか、ということです。

 これに関する私の考えは、単純で、たとえ、昔の時代に述べられた、「神の言葉」のようなものがあったとしても、前にも述べたように、時代や地域が異なれば、全然、違う判断が下されるようなところもあるので、それゆえ、現在のように、多くの人々が、ある程度、教育水準も高く、自分達の意思で、いろいろなことを決めたり、自分達の責任で、いろいろなことを変更できるような時代には、そうした「神の言葉」と言われるものの具体的な一言(ひとこと)、一言を、そのまま鵜呑みにするのではなく、その中に含まれる神の意思、もしくは、神の考えを、よくよく汲みとることの方を優先して、現代であると、昔と違って、自然環境との共生のような視点は、とても大切になるのですが、それ以外には、できるだけ、多くの人々の平和や幸福や繁栄が実現できるような方向で、その時々において、新たに判断し直してゆけば、良いのではないか、ということです。

 第二には、その際に、多くの人々が、結構、切実に悩み、困ってしまうのが、「昔からの宗教的な掟や決まり事のようなものを、いったい、どこまで忠実に守ればよいのか」、ということになるのではないか、と思われるのですが、これに関する私の見解は、単純で、たとえ、そうした昔からの掟や決まり事のようなものがあったとしても、現実に多くの人々が困ったり、苦しんだりしているのであれば、とにかく、それを、できるだけ最短時間で、最も効果的に解決できるような合理的な考え方や行動をとるのが、一番である、ということと、ただ、そうした時にも、万が一、何か変わったことや異常なことが起きた際には、いつでも考え方や行動の原点を見直せるように、多少、慎重な態度を持つことが、とても大切なのではないか、ということです。

 つまり、現代においても、時折、何らかの経済性や合理性に基づく判断をしたにも関わらず、しばらく経つと、結局、何らかの大問題が発生してしまうことがあるのですが、そうした際に、よく調べてみると、どうも昔の人も似たような問題で、散々悩んだ末に、何らかのヘンテコな決まりや習慣を作っていたようなケースもあるので、そうしたことにも、多少、注意や配慮が必要なこともある、ということです。

 第三には、これは、あまり言われない話になるのですが、実は、よく考えてみると、とかく、「神様」、「仏様」の視点が重視されがちな宗教も、元をたどれば、何のことはない、昔々、ある時代の、ある地域で説かれた、そこに住む人々を、最も平安に幸福に豊かにしてゆくための、いわゆる、「幸福教」のようなものだったのではないか、ということです。

 ただし、宗教の場合は、こうした「幸福教」と言っても、巷のこの世的な幸福論とは異なり、たいてい、この宇宙の創造主である神仏の視点や、死後や来世といった霊界の視点や、それから、宇宙の法則や魂の進歩の視点などが、多分に織り交ぜられた観点から、そうした幸福のあり方が説かれることが多いのですが、ただ、そうした霊的な視点を除けば、基本的には、たとえ、いかなる宗教の教えであっても、何らかの幸福論の延長線上の存在であった、ということなのです。

 ですから、こうした観点から見ると、もし、この物質世界における現実のあり方と、霊的、あるいは、宗教的な考え方が、真っ正面からぶつかって、なかなか折り合いがつかない場合には、宗教的な信仰や戒律や教義や、歴史や伝統よりも、そこは、単純に、「神仏」と言われる霊的な存在の意思は、ある程度は、しっかり汲みつつも、現在の多くの人々の平和や幸福や繁栄の実現の方を、断固として、しっかりと選び取ってゆくことが、とても大切なのではないか、ということです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年12月25日 9:04 PM, 愛について



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