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末永く平和で安定した社会を維持してゆくために必要な人類の知恵について Part 2

2、いくら多くの人々が、平和や社会の安定を願ったとしても、人類の心の奥の闘争本能や破壊欲求を、より創造的で楽しい多くの人々が本当の満足感や一体感を味わえるような方向にうまく転嫁してゆけない場合には、一定期間ごとに戦争や天変地異などの社会の危機が繰り返されるような傾向があるので、注意が必要である

 それから第二には、今度は先ほどと話が違って、現在までの多くの人々の精神的な傾向から単純に割り出される一種の歴史の教訓のような話になるのですが、現在までの地球の歴史を見てゆくと多くの人々は、戦争や混乱の中でこそ平和や社会の安定というものを心から志向してゆくようなところがあるのですが、それでは、そのような形で長い期間に渡って平和や社会の安定が続いた場合には、いったいどうなるのかというと、どうもそうした平和や社会の安定にはだんだん心の底から退屈して、イライラしてくるようになり、逆に何らかの形で戦争や社会の混乱であるとか、天変地異の勃発のようなものを心の奥では、かなり強く熱望するようになるようなところがあるようなのです。

 その理由は、おそらく多くの人々の想像や思い込みとはかなり違って、人間の心の奥には、かなり強い闘争本能や破壊欲求のようなものがあるからなのではないかと私は考えているのですが、そのために、これまでの人類の歴史だと何らかの大戦争や大混乱を経て、ある程度その国の社会が落ち着いて、平和な豊かな時代になったとしても、短くて数年、また長くても、だいたい数十年から数百年程度の期間が過ぎると、さまざまな理由で戦争や混乱が生じたり、大変な危機や天変地異のようなものに直面するようになることが非常に多かったということなのです。

 それでは、こうした人類の心の奥に潜む闘争本能や破壊欲求というものは、いったいどのような形で押さえてゆくというか、あまり社会の混乱がないような形で、その方向を正してゆくことができるのかというと、現在までに人類が考案した方法は、大まかに言うと次のような三つの方法になります。

 まず第一には、こうした人類の心の奥の闘争本能や破壊欲求をある程度満たしつつ、それをもう少し平和的な建設的なものに変えてゆくために、基本的に人殺しや破壊などとは全く縁のないゲームやスポーツや学習競争のようなものをある程度人工的に作って、そうした競争の中で一人一人の人間や、あるいは国とか、県や市などのある程度の規模の集団が競い合うことによって、そうした闘争本能や破壊欲求はある程度満たしつつも、それよりかは、もっと自分自身を高めるとか、多くの人々のために何らかの形で貢献するような、より平和的で建設的な方向に多くの人々の関心や欲求の方向をそろえていったということです。

 第二には、これは現在、多くの人々が非常に大きなやりがいや満足感と、それから、その反対に非常に大きな疲労やストレスや不満感を持つ原因になっているものであるのですが、要するに多くの人々が個人として、あるいは企業のようなもう少し大きなチームとして、経済的な糧を稼ぐために一生懸命働くとか、より高い経済価値を生み出すように努力するとか、より新しい素晴らしい発明や技術を作るための創造活動を行うなどというような経済活動に参加することによって、「毎日毎日、ある程度の達成感と成長した感覚を味わう」とか、「他の個人や企業との競争の中で勝ったり、負けたりするような体験をする」とか、「知識や経験や能力の向上によって、昔よりもより成長した自分や企業のあり方を確認する」とか、「経済的な豊かさを得る中で、自分自身の価値を再確認する」などというような戦闘的、破壊的ではない経済競争の中での一種の勝ち負けを体験するようになったということです。

 第三には、これはあまり言われることは少ないのですが、そうした闘争欲求や破壊欲求のようなものをより創造的で楽しい、また多くの人々が、より大きな満足感や一体感を味わえるようなものに転化してゆくために歌やダンスや演劇といった芸能活動を盛んにしていったり、また自分自身の内面的な成長と多くの人々の連帯感を味わえるような宗教活動や慈善活動を盛んにしたり、それから自分自身の本能的な欲求をわりとそのままの形で充足でき、なおかつ他の人々との深い肉体的、精神的な一体感を味わえるようなセックスの適度な開放によって、多くの人々が戦闘的、破壊的ではない、より愛情や善意に満ちた、より創造的で楽しい深い満足感や一体感を持った社会にしてゆくような方法があります。

 ただ、この場合には、先ほどから述べているような戦争肯定型の社会のあり方とは、本質的にかなり異なったものとなってしまうために、たいてい、どの国や地域でも、そうした社会のあり方に変化してゆくには、それなりの試行錯誤や紆余曲折の経緯が必要になることが多かったようです。

 それから、これは、たいへんおかしな話なのですが、たいてい軍事大国路線の国であればあるほど、こうした個人個人の自由を大幅に認めるような社会のあり方は全否定してゆく傾向が非常に強いのですが、ところが、そうした国に限って、その国で伝統に則(のっと)った誇り高い文化として持ち上げているようなものは、何のことはない何百年も前にその国が非常に繁栄していた時代にやっていた、今述べたような芸能事や宗教物や恋愛やセックスにちなんだものであることが、ほとんどであることが多いので、本当はこうした伝統主義や文化礼賛主義のようなものは、歴史の実態とは少しずれたようなところがあるものなのです。

※不思議な話なのですが、反世界的な要素の強い低次元領域では、これまでずっと長い期間に渡って、闇の勢力の陰謀によって、肉体的快楽が潜在意識的な苦痛に通じ、その反対に肉体的な苦痛が、潜在意識的な快楽に通じるようなケースが多かったために、なぜか多くの人々が破壊や暴力によって、爽快感や快楽を感じることがあったり、その反対に楽しさや快楽によって、苦痛や嫌悪感を感じることがあったようなのです。ですから今述べたような方法は、そうしたこれまでの長い長い光と闇の時代における戦争や社会の混乱を、少しでも減らすための人類の知恵の一種のようなものだったと考えてよいと思います。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年9月16日 9:06 PM, 政治 / 歴史 / 軍事



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