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多数決の原理について Part 7

3、マスコミは、単に次から次へと起きる政治や経済や社会のニュースを垂れ流しにするようなスタンスはやめて、常に誰が、その情報の発信責任者なのかを明確にした上で、「だから、こういうことには、注意しましょう」とか、「こうした場合には、こうなると思われるが、こうした場合には、こうなります」などというような仕事や生活上の注意事項や、冷静で客観的な未来予測の結果を知らせて、一人一人の市民が、より幸福な選択や行動をスムースに行えるようにサポートするような新たな情報サービスに進化すべきである

 第三には、これは、あまり聞いたことのない話なのではないかと思うのですが、実は、現代の地球でよく見られるようなニュースの形態であると、普通の一般市民は、ただでさえ日頃の仕事や生活が忙しいにも関わらず、そこへ次から次へと政治や経済や社会のニュースが入ってくると、これは、どんなに優秀な人であっても、自分の仕事や生活に関係のあることや、自分の専門のこと以外は、もう政治のことも経済のことも社会のことも、だんだん何が何だか訳が分からなくなってきてしまうようなところがあるのです。

 それでは、こうした状況において、そうした政治や経済や社会のニュースというのは、いったい、どのような扱いにしてゆけばよいのか、というと、これは考えてみれば、わりと単純な話なのではないかと思うのですが、要するにみなさんが、いつも会社や家でやっている通りの知識や情報の収拾や、選択や決定や行動のプロセスとほとんど同じような方法で、そうした政治や経済や社会のニュースに接するようになれば、こうした問題は、ほとんどすべて解決できるようになるのではないか、ということなのです。

 それでは、それは、いったい、どんな方法になるのかというと、少し具体的に言うと、現在のニュース報道だと、「○○という大変なことが起きました」というような大見出しから始まり、その次に「○○とは、こういうことです」というような大雑把な説明が流れることが多いのですが、もし最初の時点で、その細かな説明を知り損なってしまった人というのは、もう後になると結構、それなりに努力しないと、その意味も重要性も全く分からないような状況に、すぐになってしまいがちであったということなのです。

※例えば、現在の社会状況だと、最初に「TPP」の説明を理解し損ねてしまうと、その後、ニュースでTPP、TPP、TPP、TPP・・・・、と何回流れてきても、結局、?、?、?、?、?、?、?、?、というような状況になってしまいがちなのです。そして、ニュースを流す側は、「一応、正確な報道をしたつもりになっている」、それから、そうしたニュースを見ている側も「一応、分かったつもりになっている」ということなのですが、実際には、ほとんどの人は、分かるようで全然分かっていない、というような状況になりがちであったということです。

 それでは、こうしたニュース報道をいったい、どのような形に変更すればいいのかというと、これは言ってみれば、「おらが村」のニュースと同じで、まず最初に「これは、みなさんの仕事や生活上の利害に直結する、とても大変な問題です!」というニュースの重要性の説明があって、その上で「現在、こういう政治や経済や社会上の問題が巻き起こっています」とある程度、詳しい状況説明をした上において、その上で「その問題の要点は、これとこれで、もし、こういう選択をした場合には、我(我が社)の予測では、こうなりますが、別のこういう選択をした場合には、我(我が社)の予測では、こうなります」という具合に、単に事実をそのまま垂れ流しにするようなことはせずに、これはマスコミでも個人や企業の名義でも構わないのですが(常にその情報の発信責任者は、明確にする必要があります)、「自分達が責任を持って分析し、討論した結果、こういう理由で、こういう選択や判断をした方が得策だと思われます」というようなことにまで、そこそこ踏み込んで(別に威張ったり、感情を込めたりする必要はないのですが)、ある程度、責任を持って、分かりやすく明確に説明するようなスタンスに変更してゆけばよいということです(ただし、分からないことは分からないと、はっきり説明することと、それから最終的な決定権や選択権は、一人一人の市民の側にあることは、常に強調する必要がありますが・・・)。

 ただ、現在の日本では、「戦前、戦中の政府やマスコミの誤った発表や報道で多くの国民が騙されて、散々な目に遭った」というような過去の経緯があるので、こうしたマスコミの報道は、なかなか行いづらいようなところがあるのですが、ところが実際のマスコミの報道を見ていると、「それって、どう考えてみても世論誘導しているんじゃない?」とか、「そういう風に報道されると、みんな何をすればいいのか訳が分からなくなるし、実際、誰も何もできないじゃない?」などということが非常に多いのです。

 それゆえ、たとえ現在の世の中では、どのマスコミも、いっけん、あまり断定調の報道なんてしていないように思われたとしても、現実の社会的な効果の観点から見ると、たいていの人は、毎日のようにたくさんのマスコミの報道に接しているうちに、「結局、何が何だか訳が分からなくなった」とか、「結局、何をすればいいのか、よく分からなくなった」というような感覚を持っていることが多いようなので、実際には、現在のようなマスコミの形態であると、結果としては、間接的な形で多くの人々を世論誘導をしてしまっているようなケースが非常に多いのではないか、ということなのです。

 それゆえ現在の日本の場合においても、確かに全部のマスコミが完全に統一された見解であったら、とても問題だとは思うのですが(実際には、時々、そういうこともありますが・・・)、「この新聞社は、こういう意見」、「このテレビ局は、こういう意見」というように、わりと簡単に、いつでもその問題の要点と、国民の選択や行動の基準が明確に分かるように整理して、報道するようなスタンスに戻った方が良いのかもしれないということです。

 それと、これは少し政治の話からは離れるのですが、よくニュースでは、「○○という大変な事故があった」とか、「○○というような、すごいショッキングな大事件があった」というようなニュースが流れることが多いのですが、確かにそれが大事件なのは分かるし、報道しなくてはならないのも分かるのですが、たいてい、そうした話は、大半の人には、全く他人事で役立たないことも多いので、これは私は、個人的には、昔から実行していることなのですが、「○○という事件や事故があったのですが、そうした事件や事故の再発防止のためには、こういうことに気をつければ、安全に生活できますよ」とか、「こういう犯罪があったので、市民のみなさんは、こういうことには十分、気をつけてください」などというように、単に恐怖や不安を煽るのではなく、「いかにすれば、そうした事故や犯罪に巻き込まれないで済むのか」というような仕事や生活上の注意事項のようなものを一緒に報道するようにしないと、本当はマスコミの仕事としては、不十分なのではないか、というように私は率直に感じております。

※一般にこうしたマスコミの報道では、「誰が、いつ、いったい、どのような情報や前提に基づいて発言したのか」ということと、「最終的な選択権はマスコミの側にあるのではなく、常にそうした情報に接している一人一人の市民の側にある」というスタンスをしっかり守り抜くことが大切なのではないか、と私は思うのですが、もう一つ大切なのは、こうしたマスコミの見解は、常にただ一つの正解があるテストの解答のようなものとは全く性質の違うものなので(現実の社会では、めったにそんな状況はありません)、もし、その後の状況の変化で見解が変わった場合には、誰かの責任問題にして、大騒ぎする必要なんて全くないので、いつでもそうした情報発信の責任者の人が、「現時点では、こうした状況の変化で、自分達としては、こういう見方に変わったので、一応、早めにみなさんにお伝えしておきます」とか、「前の見解は、こういう前提に基づいて発言していたのですが、現在、こうした前提条件が全然変わってしまったので、現在は、こういう見解の方が、より良い結果になるのではないかと思われます」などというように、常に「誰が、その情報発信の責任者なのか」ということを明確にした上で、その時々の状況の変化に応じた見解を、多くの人々に伝えるようにしてゆけばよいのではないか、というように私は考えております。

 

 続く・・・

 

 追伸

 Part 5の終わりに、以下の補足の文章を追加しました。

※現在の日本の学校教育では、市民教育のことを「公民」(私は学生時代、何の意味だか、全然分かりませんでした・・・)という名称で教えているのですが、辞書で「公民」や「公」の意味を引くと、一時代前のとんでもない意味ばかりが出てくるので、別に国家の民でもなければ、天皇や朝廷の民でもなく、また社会の民でもない「国民主権」の現代日本の市民教育の名称としては、私は公民ではなく、「市民」という名称の方が、よりふさわしいのではないか、と率直に考えております。

 この場合の「市民」とは、すべての国民が、等しく平等な権利を持つと同時に、責任を持って国政に参加し、政府を運営してゆく自立した個人であるというような意味になります(詳しくは、「日本国憲法」の「国民の権利及び義務」のところを参照してください)。

 

Cecye(セスィエ)

2011年11月14日 9:14 PM, おすすめ記事 / 政治 / 社会、文化



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