③人間として、生きる上で、多くの人々が、常に抱えがちな罪の意識や穢れの感覚や、強いストレスや息苦しさを、何とか、少しでも軽減するための都合の良い手段として、古来から、神仏の存在は、さまざまな形で利用されつづけてきた節がある
第三には、これも、非常に問題が多い内容なのですが、実は、現在のような人間社会のシステムであると、多くの人々は、表面意識としては、全く、よく分からないことが多いのですが、普通の人間生活をしているだけで、「何となく、自分は、ものすごく悪いことをしてしまったような気がする」、とか、「何となく、自分は、ものすごく穢(けが)れているような気がする」、とか、「何となく、自分は、ものすごく誰かに害されているような、イライラしたストレスのようなものを感じる」、とか、「よく分からないのだが、何となく、気分が落ち込んで、ふさいでいってしまう」、などというような、人間としての罪の意識や、穢れの感覚や、強いストレスや息苦しさのようなものを感じることがあると思うのですが、古来から、人間社会では、こうした人間としての罪の意識や穢れの感覚や、強いストレスや息苦しさのような感覚を、うまく排除して、いつも通りの普通の人間としての生活を続けるために、目に見えない神仏の存在というのが、うまく利用され続けてきたようなところがある、ということなのです。
これは、例をあげると、きりがないのですが、例えば、「何となく、自分は、ものすごく悪い罪を犯してしまっているような気がする」、というようなケースの場合には、「この神様に祈ると、この神様は、どんな、とんでもない悪い悪人でも、何でもすべて許すような偉大な神様なので、あなたの罪も、すべて喜んで、許して(引き受けて)くれますよ」、とか、あるいは、「自分は、何となく、ものすごく汚れて、穢れているような気がする」、というようなケースの場合には、「この神仏のお祓(はら)いをすると、どんな罪穢れでも、神仏の力で、何でも、パッと祓うことができますよ」、とか、あるいは、「仕事も家のことも、本当に、心の底から、うんざりしているので、何かに、ぶち当たるか、もうどこかに逃げ出してしまいたい」、というようなケースの場合には、「大きな声で、この経文をあげたり、どんどんと太鼓などを叩いて、体を動かしていれば、あなたの悩みは、すべて、この偉大な神仏が解決してくれますよ」、とか、さらには、「もう単調で、何の変化もない毎日の生活が、ほとほと嫌になって、ものすごく落ち込んだり、イライラして、止まらなくなる」、というようなケースの場合には、「この神仏へ、一年の感謝を込めて、たくさんの人々と一緒に、盛大なお祭りをすれば、そんな小さな悩みは、パッと、どこかに吹き飛んでしまいますよ」、などというような具合に、はっきり言うと、今日の感覚で言うと、普通、人間として、生きているだけでは、ちょっと、訳の分からないような罪の意識や穢れの感覚や、強いストレスや息苦しさのようなものを、何とか、少しでも軽減してゆくための手段として、直接、誰か人に頼めば、絶対に、すべて無理難題として、断られるような類(たぐ)いの願いや要求のようなものを、いろいろな理由をつけては、目に見えない神仏の存在を利用して、うまく解決しようとし続けてきたようなところがある、ということなのです。
つまり、もっとはっきり言うと、これは、今日の感覚で言うと、宗教の仕事というよりも、精神科やカウンセラーや、ダンスホールやコンサートや、飲み屋のような飲食店や、いろいろなサークルなどが果たしているような仕事や役割になるのですが、そうした多くの人々の罪の意識や穢れの感覚や、強いストレスや息苦しさのようなものを、いろいろな理由をつけては、目に見えない神仏の存在を利用して、少しでも軽減しようとしてきた、というのが、こうした宗教のよくある実態だったのではないか、ということなのです。
Cecye(セスィエ)