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宗教選びの五つの要素について Part 8

④本当に真実かどうか、ということよりも、多くの人々が、人間として生きる上での不安や恐怖や怒りや失望の思いを、何とか、うまくコントロールして、一日一日を、精一杯、清く、正しく、優しく、向上心を持って、生きてゆくための確かな心の拠り所を見いだすために発展してきたのが、宗教の実態だったのではないか

 第四には、これも本音の話で、誠に申し訳ないのですが、私が、多くの人々の様子を、客観的に観察してみたところ、どんなに信仰深い人であっても、「本当に、その人が、心の底から、その神仏を信仰しているのか」、というと、私は、ほぼすべてのケースにおいて、7、8割は、信じるけれども、残りの2、3割は、本当は、あまり信じていない、というか、もっとはっきり言うと、その場その場の状況によって、まるで生粋(きっすい)の信者のように振る舞うこともあれば、その反対に、客観的に見る限り、これは、どう考えてみても、本当の信者の行動とは言えないのではないか、と思われるような行動をとることが多いように感じている、ということなのです。

 少し分かりづらいと思うので、具体例をあげて、説明したいと思うのですが、例えば、どんなに信仰深い人であっても、その宗教の教典の通りに、完全に100パーセント、そっくりそのまま信じて、生きられるのか、というと、これは、状況にもよるのですが、たいていの宗教は、その発祥が、何百年、何千年も前の時代であることが多いために、はっきり言うと、どんなに信仰深い人であっても、昔の通り、そっくりそのまま宗教生活するのは、不可能なので、「ここは、教典の通り、生活するけれども、ここは、現代では、無理なので、もう現代的な別のやり方でやるしかない」、とか、「この通りのことをやろうとすると、現代だと、犯罪として、法律で罰せられてしまうので、とてもではないが、全くできない」、などというように、「この場合は、その宗教の教典や戒律の通り、実行できるけれども、この場合は、現代の時代では、全く不可能なので、別の方法で、代替するしかない」、というような行動様式をとっている人が、ほとんどなのではないか、ということなのです。

 つまり、もっとはっきり言うと、どんなに素晴らしい宗教を、どんなに信仰深い人が、熱心に信仰していたとしても、「このケースの場合は、その信仰の通りにできるけれども、このケースの場合は、全く別の行動様式で行動する」、などというように、たいてい、どんなに信仰深い人であっても、口では、「絶対の信仰」、などと言いつつも、実際には、ダブル・スタンダード(二つの考え方や、やり方)で、二つの行動様式をとっていたり、さらには、その時々のいろいろな状況に合わせて、トリプル・スタンダード(三つの考え方や、やり方)や、マルチ・スタンダード(たくさんの考え方や、やり方)をとらざるをえないようなところがあった、ということなのです。

 そうすると、こうした状況における宗教のあり方というのは、いったい、どのようになるのか、というと、これは、はっきり言って、誠に申し訳ないのですが、たいてい、信仰深い人は、「自分は、ただ一つの真理や信仰を信じている」、と心の底から、深く信じ込んでいることが多いのですが、現実には、どんなに信仰深い人であっても、「自分は、ただ一つの真理や信仰を信じている」、と信じていたいのだが、ただ、現実の仕事や生活では、そうした、ただ一つの真理や信仰とは、多少、異なる考え方や行動様式をとったり、また、場合によっては、かなり異なる考え方や行動様式をとりながら、生きている、というのが、現実の実態なのではないか、ということなのです。

 そうすると、こうした現実の状況を見据えて、信仰とは、いったい、何なのか、ということを、あらためて、考え直してみると、いったい、どのようなことが言えるのか、というと、これは、多くの人々にとって、本当に本音の声になってしまうので、人によっては、かなり反感、というか、敵意を抱くような内容になってしまうかもしれないのですが、要するに、多くの人々にとって、信仰とは、「とにかく、この世は、迷いや問題が多くて、何も考えないでいると、だんだん、四六時中、不安や心配や、恐怖や怒りや失望の念で、心の中が、いっぱいになってきて、本当にやりきれなくなってきてしまうようなところがあるので、そうした自分の心の中の不安や恐怖や怒りや失望の思いを、何とか、適度に、うまくコントロールして、そして、人間として、生きてゆく一日一日を、心穏やかに、平静に、人間としての優しさや向上心を忘れずに、精一杯、努力して、生きてゆくための、何らかの心の指針、というか、何らかの心の拠り所のようなものを見つけることができないか」、というような、心の底からの願い、というか、心の底からの欲求を満たすために、はっきり言うと、「できれば、完全な真実であることが望ましいけれども、だけど、それが、現実に無理であるならば、正直言うと、本当は、嘘か、本当か、よく分からないところもあるけれども、とにかく、何か、自分の心の支えとなり、自分の心の確かな指針となるような、何らかの心の拠り所が欲しい」、というような人間としての切実な願い、というか、欲求に基づいて、多くの人々が、信じようと努力し続けているのが、現在、地球上に数多く存在している、宗教の実態だったのではないか、ということなのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年10月27日 9:12 PM, コラム / 人生観、世界観



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