これは、いわゆる、先祖崇拝系の宗教観の強い国では、よく見られるような考え方であるのですが、とにかく、昔の人々の苦労や過ちを、よく理解することが大切であるとして、昔の社会の様子や、昔の人々の生活のあり方や考え方を、一生懸命、家庭や学校などで、こと細かく教えてゆこうとするような考え方があります。
私は、もし、「現在、及び、未来に生きる、その社会の人々が、大きな失敗をしたり、大きな不幸に陥らないようにしながら、より幸福に豊かに生きてゆけるようにしてゆこう」、というような明らかな方向性の下に、そうした過去の過ちや不幸を教えてゆくのであれば、それほど問題ないのではないか、と思うのですが、そうではなく、「昔の人々は、とても不幸で大変だったので、お前達も、彼らのように、もう少し苦労すべきだ」、とか、「もっと大変な体験を、たくさんするべきだ」、というような意味で、そうしたことを教えてくるのであれば、それは、基本的に、全く間違っているのではないか、というように考えております。
それというのは、これは、前にも歴史教育のところでも述べたのですが、過去のことを知るのは、それは、現在、及び、未来において、多くの人々が、より過ちや不幸の少ない、より幸福で豊かな生活をしてゆくためであるべきなので、それゆえ、昔の人々の不幸や過ちを知ることが、それが、決して、現在、及び、未来に生きる、多くの人々の精神的な重荷や足かせのようなものになることがあってはいけないし、また、同じように、単に、過去の膨大な知識を丸暗記させられるだけで、何の教訓も見いだせない、また、何の幸福や豊かさのヒントも見いだせないような勉強を強いられることに関しても、基本的に、全く何の意味もないのではないか、というように思うからです。
ですから、私は、もし、多くの人々が、昔の人々の苦労や過ちを学ぶのであれば、単に、そうした昔の人々の苦労や過ちを、心の重荷や足かせにするような学びをするのではなくて、そうではなく、常に、現在、及び、未来に生きる、多くの人々が、より苦労や過ちの少ない、より幸福で豊かな社会を築いてゆくための、何らかの生きた教訓や知恵を見いだすための学びにしてゆくことが、とても大切なのではないか、というように率直に考えております。
※つまり、昔の人々の不幸や過ちを知ることよりも、現在、及び、未来に生きる、多くの人々の不幸や過ちをなくし、より豊かで幸福な人生を歩めるようにしてゆくことの方が、遥かに重要なのではないか、ということです。
Cecye(セスィエ)