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源氏物語は、現代の感覚で言うと、せいぜい、一部のセレブの間で流行った、稀代のプレイボーイを主人公にした長編少女マンガのような位置づけに過ぎない Part 4

5、もし源氏物語が、素晴らしい文学であるとするなら、それは古語表現の良さではなく、そのストーリー自体の面白さからなので、それをわざわざ現代人には、よく分からない古語で読む必要性は全くないのではないだろうか?

 第五には、これは、あまり指摘されることが少ないのですが、源氏物語が、もし本当にものすごい文学であると言えるなら、それは、その「古語」による文章表現が素晴らしかったというよりかは、とにかく千年もの間、多くの人々に愛され、読み継がれるくらいの内容としての面白さや奥深さがあったからなのではないか、ということなのです。

 つまり、現在の日本の学校教育であると、「とにかく源氏物語が素晴らしい文学なので、古語の原文のまま、そのまま理解できるようになってください」というようなスタイルが取られることが多いのですが、これは言ってみれば、英語の名作の小説を、「これは素晴らしい名作なので、普通の日本語ではなく、英語の原文で、そのまま理解して読めるようになってください」と突然言われているのと、はっきり言って、子供の立場としては、ほとんど違いがないということなのです。

 つまり、英語やフランス語やドイツ語といったヨーロッパの言語で書かれた本であれば、たとえ、そうした「名作」と呼ばれるような文学であったとしても、日本人の子供には、細かなニュアンスや表現の面白さは分からなくても、最初は、取っ付きやすいように現代の易しい日本語で読めば、それで十分である、というようなスタンスがとられているにも関わらず、それが日本の古典文学になると突然打って変わって、とにかく現代の日本語ではなくて、昔の古語で、そのまま理解して読めるようになってもらわないと困るみたいなスタンスで教えようとしてくるのは、かなり問題なのではないか、ということなのです。

 その結果、たいていの人は、そうした古典文学に接すると、学校の授業の時間のような表向きの格好はともかくとして、精神的には、「もう面倒くさいし、訳分からないし、嫌だ」みたいな完全に拒絶反応が出てくるような状況になってしまうということなのです。

 ですから私は、たとえ日本の古典文学であっても、その本の良さは、別に「古語」で書かれていることではなく、その本自体の内容の良さであるはずなので、基本的には、よほどそうした古典文学が大好きだ、というような人でもなければ、古語でなんて教えないで、せいぜい現代語訳の本を薦める程度で、教育としては十分なのではないか、というように考えております。

※源氏物語とか、俳句が、海外でも非常に評価されているというような話を時々聞くのですが、ところが、そうした海外で出版されている日本の古典文学というのは、基本的にその国の古語ではなく、すべてその国の現代語で翻訳されて、そうした評価を受けているということなのです。ですから当然、もし海外にその国の古語で、そうした日本の古典文学を紹介した場合には、多分、どこの国からも何の評価も評判も返ってこないような、かなり散々な状況になるのではないか、と思われます。

 ですから、こうした海外の評価というのは、少し割り引いて理解する必要があるということが言えるでしょう。

 

千年前の源氏物語の位置づけは、現代の感覚で言うと、せいぜい一部のセレブの間で流行った、稀代のプレイボーイを主人公にした長編少女マンガのような位置づけであったと考えられるので、それを何も学校で、すべての子供達に対して、ものすごい権威をつけて、古語で教えるほどの必要性は全くないのではないだろうか?

 こうした観点から考える限り、私は、たとえ源氏物語が、千年前の古典文学だからといって、それは現代人の感覚で言うと、せいぜい、一部のセレブの間で流行った稀代のプレイボーイを主人公にした長編少女マンガのような位置づけであったと考えられるので(つまり、もっとはっきりと言うと、本当は、あまり「国民文学」と呼べるほどの存在ではなかったということ)、何もそうした文章を、全国通津うらうらの学校教育の場において、多感な少年少女の時代に難しい古語のまま、ものすごい権威をつけて、当人の好き嫌いなんて全く問わずに、一方的に教える必要性なんて全くないのではないか、というように率直に感じています。

 源氏物語の話は、これでおしまいです。

 

Cecye(セスィエ)

2011年5月30日 9:26 PM, コラム / 教育 / 歴史 / 社会、文化 / 芸術、美



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