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子供を本好き、勉強好きに育てたいなら、子供の希望を一切無視した、約十年にも渡るような国語教育の強要なんて、一切止めた方がいい

 今回も前回に引き続き、教育についての話になります。

 

 それでは、現在の国語教育で一体、何が問題なのか、というと、簡単に要点だけ述べると、大体、以下のような三つの内容になります。

 

1、子供を本好きに育てたいなら、どこの誰が選んだともよく分からないような勝手な、つまらない読書の強要はやめて、教師は、文字の読み書きを教えたら、あとは子供が好きなように自分が最も楽しいと思える読書の習慣が持てるような適切な読書のガイドとアドバイスだけをしっかりと行っていれば、それで十分である

 まず第一には、そもそも学校における国語教育の目的は、本を読んだり、いろいろな知識や技術を知って、自分を向上させることが大好きな人間に育ててゆくことであるはずなので、子供に文字の読み書きを教えることは確かに重要だけれど、それ以外に、その子供が全く関心のない本を、次から次へと機械的に読ませるとか、何度も余計なテストや指導を行って、その子供が本嫌い、勉強嫌いになるような国語教育を行うような必要性というのは、本当は全くないということです。

 ですから、これはよく考えてみれば、当然のことであるのですが、学校に入ったら、一応、学校としては、その子供にとって、最高に学習効率が高いような楽しい方法で(授業の時以外に自分の好きなように教科書を読んでいると、意外と勉強って、面白いと感じた経験ってありませんか?)、文字の読み書きを教えることについては全く問題ないのですが、その上でその子供が、一体、どんな本を読むのかとか、どんな本の読み方をして、どんな感想を持つのか、ということに関しては、これは個人の主観、というか、好みによるものが大きいので、本当は教師が、あまり横から、とやかく口出しするような性質のものではないのです。

 つまり学校の義務教育の課程で、子供に基本的な文字の読み書きを教えること自体には、私は、あまり問題ないと考えているのですが、それに乗じて、次から次へと学校、というよりも、どこの誰ともよく分からないような人々の手によって(つまり、多くの人々から民主的に選ばれた人々ではないということ)、どんな基準で選ばれたのかということすら、よく分からないような学習教材を、本人の希望は一切無視して、何年も何年も何年も何年も・・・、ずっと読ませ続けたり、教え続けたりするのは、どう考えてみても、これは精神的な拷問以外の何物でもないということです。

 

読書の悦びや知の悦びを知っている人々が、代わる代わる子供達に接して、自分の推薦する本や、その楽しみや奥深さや有用性を自分の実体験に基づいて、気軽に話してあげられるような環境に子供達を置いておけば、別に何も強要しなくても自然と、どの子も知恵深く、思慮深い人間に育ってゆくものである

 ですから、この場合、もっとも適切なのは、「今の君の読み書きの能力だと、この本が一番面白いんじゃない」とか、「この本がつまらないなら、今の君には、このキャラクター物の話が一番いいね」とか、「この本が面白いなら、この本も、きっと面白いと思うよ」などというように教師のような立場の人には、文字の読み書きの指導以外には、一種の読書のインストラクターのような立場についてもらうのが、私は一番良いのではないか、というように考えております。

 はっきり言うと、これは別に学校の教師でなくてもいいので、その辺の街にいる、ちょっとした教養のあるおじさん、あばさん、おじいさん、あばあさんみたいな人々にも、時々学校に来てもらって、その子供の年齢相応に、「君、この詩の良さが分かるようになったら、君も、ちょっとした大人だね」とか、「そういう悩みの人には、こんな本がお勧めだよ」とか、「君みたいに頭がいいなら、もう少し難しい哲学書とか、評論や随筆みたいなものを読んだら、面白いかもしれないね」などというように、その人が、その人の人生において、最も影響を受けたとか、最も面白いと感じたいろいろな本を代わる代わる、いろいろな人々が勧めるような読書環境になっていれば、おそらく現代のように多くの人々が本嫌い、活字嫌いの人間にはならずに、もっと単純に自分自身の純粋な楽しみや悦びのために、ちょっとした読書の習慣を持つとか、単なる読書を超えた哲学や評論の中の知の悦びが分かるような人間が、もっともっと、たくさん増えるのではないか、というのが私の提案なのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年5月24日 9:22 PM, コラム / 教育 / 知恵、正しさ



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