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たとえ国語教育であっても、その人が、何を楽しいと感じるかとか、何に感動するか、ということにまで深く干渉し過ぎた場合には、単なる人権侵害になってしまう

 今回から何回かに渡って、再び、教育について述べてみたいと思います。

 

民主主義国の国語教育の目的は、一人一人の人間が、その国及び、その国と関係の深い諸外国の言葉の読み書きをしっかりマスターできるようにすることと、自分自身の意見の発表の仕方や、他の人の意見の聞き方をしっかりマスターして、そうした多くの人々の意見に立脚した最も正しい、最も多くの人々の利益に叶うような集団としての意見や考え方を導き出せるようにすることである

 まず国語教育からなのですが、これは現在の日本の国語教育では、ほぼ完全に誤解されているのではないか、と思われる内容になるのですが、国語教育とは、自分の読みたくない文章を、自分の意思と全く関わりなく山のごとく読まされて、勝手に試験をされて、点数を付けられたり、成績を付けられることでもなければ、また自分の書きたくない文章を、次から次へとたくさん書かされては、それについて、「君の書き方や感じ方は間違っている」とか、「君の言ってることは、せいぜい30点の出来だね」などというように、自分が主体的に選んだわけでもないような国語の教師に、ああだこうだと勝手に手直しされたり、勝手に採点されたりして、成績を付けられることとは、本当は全く何の関係もないということです。

 つまり、本当の国語教育の趣旨としては、せいぜい民主主義国の市民生活にふさわしいだけの、その国及び、その国と関係の深い諸外国の言語の基本的な読み書きをマスターすることと、それから民主主義国の市民にふさわしい自分の意見の発表の仕方や、あるいは、他の人の意見の聞き方をしっかりとマスターして、それによって、大勢の人々が全く公平な立場でもって、自分の意見を述べたり、他の人々の意見を聞いたりしながら、その上で、そうした多くの人々の意見に立脚した、もっとも正しく、もっとも多くの人々の利益に叶うと思われるような集団としての意見や考え方を導き出すことにあるはずなのです。

 

一人一人の人間が、何を楽しいと感じ、何に感動するかとか、何をつまらないと感じ、何を最低を感じるか、ということにまで細かく干渉して採点し、成績を付けてくる現代の国語教育は、個人の思想、信条の自由を侵害するような、とんでもない人権侵害の洗脳教育である

 そうすると現代の日本のように、「原則、国語の時間に何を読むかは、自分の好みでは一切決められない」とか、「自分が、何を楽しいと感じ、何をつまらないと感じたか、ということは一切無視して、とにかく言われた通りの教材を読まないといけない」とか、「自分が、何に感動し、何を最低と感じたか、ということは一切無視して、国が良いと勧めたものを、何でも良いと感動したことにしなくてはいけないし、国がダメと言ったものは、何でもダメと思わないと減点される」とか、あるいは、「自分独自の見方や考え方を発表する機会は、ほとんど与えられずに、とにかく言われたものを読み、言われた通りにしないといけない」などというような国語教育というのは、はっきり言って、民主主義国の市民教育というよりは、独裁国家や、一昔前の封建国家の思想統制というよりは、もっとはっきり言うと、ほとんど奴隷の調教と何ら代わりないのではないか、というのが私の感想になるのです。

 つまり、もっと分かりやすく言うと、普通、社会人であれば、「自分が楽しいと感じる本を読み、自分がつまらないと感じる本は全く読まない」とか、「その本を読んで、自分が、一体何をどう感じようが、そんなの自分の自由に決まっているだろう」というのが、当たり前の常識なのではないか、と私は思うのですが、それが現在の日本の国語教育であると、「この文章の素晴らしさが分からない人は、勉強のできない馬鹿のろくでなしなんです」とか、「この本は、素晴らしい名作と呼ばれている本なので、この本を読むと絶対、みんな感動するはずです」などというような教育姿勢が、まるで当たり前のように幅を利かせているのですが、私から言わせると、そんなのは個人の主観に任せれば良いことで、どの人が何を好むか、何に感動するかなんてことに、いちいち国家や教師が口をはさんで、まだ、ろくに世の中のことを知らない子供達に一方的に強制しようとするなんて、個人の思想、信条の侵害に当たるような、とんでもない人権侵害に当たるのではないか、というのが私の見解なのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年5月23日 9:12 PM, おすすめ記事 / コラム / 政治 / 教育 / 知恵、正しさ / 社会、文化



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