3、宗教的な「信仰」の立場と「愛」の立場がぶつかった際には、霊的に見た本当の信仰とは、決して無機的で硬直した何も考えない状態なのではなく、神仏からの深い愛と、神仏への深い愛をしみじみと感じるような「愛」の観点と、一人の人間として、神仏を身近に感じられるような自然体の幸福な生き方の中にあることを、常に再確認すべきである
第三には、これも世の中では、時々、大きな軋轢(あつれき)を起こすような問題になっているにも関わらず、まだ現代の社会では、はっきりとした結論、というか、考え方のガイドラインがしっかりと固まっていないような内容になってくるのですが、それは、いったい何なのか、というと、いわゆる宗教の世界で言うところの「信仰」と「愛」の問題の話であるのです。
これは宗教にあまり馴染みのない方には、かなり分かりづらい話になってくるかもしれないのですが、ただ現在の地球では、多くの人々が非常に熱心に宗教を信仰していることが多いので、霊的には、結構大きな問題になってしまっているようなところがあります。
それでは、こうした「信仰」と「愛」に関して、いったい、どのようなことが言えるのか、というと、これは専門書ではないので、かなり割愛して、お話ししてみたいと思うのですが、大まかな要点としては、次のような二つのことが言えます。
①霊的に見た場合、本当の「信仰」というのは、単に「強く信じる」とか、「絶対に疑わない」というような「絶対信」の観点の信仰ではなく、どちらかと言うと、「その神仏のことが、本当に愛おしいので強く愛する」とか、「自分が深く愛されていることを強く感じるので、自分も深く愛したい」というような「愛」、もしくは、「絶対愛」の観点の信仰こそが重要なのである
まず第一には、これは宗教の世界では、一種の常識に類するような話になってくるのですが、要するに宗教の世界では、いくら神仏の話を学んだとしても、実際の日頃の仕事や生活では、そうした神仏の教え通りになることもあれば、残念ながら、そうはならないこともあるし、また自分の信じる宗教以外の他の宗教や宗派の人々との間で、ちょっとした宗教的な議論でも巻き起こってしまった場合には、「これは自分も前から疑問に思っていたような話だから、正直言って、これだけは聞かれたくなかったのに・・・」とか、「なんで、そんな難しい、すぐに答えられないような話を聞くの?」などというような結構核心を突くような厳しい質問を、次から次へと簡単に浴びせられるようなケースが多かったりするものなのです。
その結果、たいていの宗教では、そうした宗教上の必要に迫られて、「何かよく分からないようなことがあっても、そう簡単には、神様を疑ってはいけません」とか、「とにかく強く信じることが大切なのです」などというような非常に強い信仰的な態度を要求されることが多いようなところがあるのです。
それでは、こうした宗教の信仰的な態度は、すべてがすべて完全に合っているのか、というと、残念ながら、そうとも言えなくて、「その人自身にもっと高い知性や教養や考える力があるなら、もう少しそうした疑問は、突き詰めて考え直した方が、本人自身の学びや成長になるのではないか」とか、「それは信じる、信じないの問題ではなくて、単に宗教の成立が古くて、教義上の説明が、現代人には合わないからなのではないか」などというような話も、結構多かったりするものなのです。
それでは、霊的な観点から見た場合、そうした宗教上の信仰というのは、 本当は、どのように考えてゆけばよいのか、というと、大まかに言うと次のような二つのことが言えます。
まず第一には、霊的に見た場合、本当は宗教上の信仰というのは、「その宗教の神仏を、できるだけ疑わずに強く信じる」というのではなく、「その宗教の神仏が、本当に愛(いと)おしいので深く愛する」とか、あるいは、「自分が、神仏に深く愛されているという自覚を強く感じるので、同じように自分も神仏のことを深く愛する」などというように、要するに「強く信じる」とか、「絶対に疑わない」というような視点よりかは、どちらかと言うと、「とても大好きなので深く愛する」とか、「いつも愛されていることを強く感じている」というような「愛」の視点をこそ、強く持つべきなのではないか、ということなのです。
第二には、これはあまり言われないような話になるのですが、前にも少し述べましたが、霊的に見た本当の信仰的な立場としては、あまり強くガチガチに信じるようなことはせずに、深い平安や安らぎの中で、まるで自分にとって、最愛の父母や夫や妻や恋人や兄弟姉妹を思うような気持ちで、自然自然のうちに信じるとか、わりと自然体の態度で信じるというような精神的な姿勢がとても重要なのではないか、ということです。
つまり霊的な観点から見た本当の信仰とは、よく昔からの宗教で言われるような「とにかく強く信じ抜く」とか、「絶対に疑わない」というような、ちょっと間違えると、盲信、狂信の世界に行きかねないような「信」の観点の信仰ではなく、どちらかと言うと、「その神仏のことが、本当に強く愛おしいから強く愛する」とか、「自分が深く愛されている自覚を強く感じるから、同じように自分も深く愛する」というような「愛」の観点の信仰、あるいは、もっとはっきり言うと、「絶対愛」の観点の信仰なのではないか、ということなのです。
※つまり、本当に相手のことを信じている場合には、いちいち、「君のことを信じているからね」とか、「絶対に信じているから、大丈夫だよね」というような疑心暗鬼の態度はとらないので、それゆえ当然、神仏に対しても、「私は強く信じます。信じます。信じます」なんて、強く念じ続けるような態度あまりとらずに、普通は、もう少し自然な感じで、「あなたに愛されて、とても幸せです」とか、「あなたのことが、本当に心から愛(いと)おしいので、自分にできる範囲のことは、何でもしたいと思います」とか、「いつも自分のことを暖かく見守ってくださり、本当にありがとうございます」というような平安や幸福や感謝の視点の方が、ずっと強くなるのではないか、ということです。
Cecye(セスィエ)
2012年12月26日 9:03 PM, イスラム教 / インド思想、ヒンドゥー教 / キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / ユダヤ教 / 中国思想 / 人生観、世界観 / 仏教 / 宗教、道徳 / 愛について / 瞑想 / 知恵、正しさ / 社会、文化 / 神道