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「愛」について Part 19

②霊的に見た、本当の信仰の立場では、単に神仏の像を拝むのでもなく、形式ばかりを重んじるのでもなく、強い崇拝意識を持つのでもなく、また、何か偉大なものに、自分の姿を重ね合わせて、偏向した倒錯意識を持つのでもなく、ただただ、自然自然のうちに、神仏を身近に感じ、神仏と自分が、まるで一つになったかのように感じられるような、自然体の幸福感の感覚があるものである

 第二には、これは、おそらく、何らかの宗教を信仰して、ある種の「悟り」のようなものを得た人には、ほぼ共通しているような事項なのではないか、と思われるのですが、霊的に見た、本当の信仰的な立場というのは、自分の外にある、何か、ものすごく大きな存在を強く信じるような感覚ではなく、そうした自分が信仰している神仏と自分自身が、まるで一つになったような気持ちで、自然自然のうちに、リラックスして、そうした神仏の存在を、身近に感じられるような感覚を持っている方が、本当の信仰的な立場に近いようなところがある、ということなのです。

 これは、何らかの霊的な体験がないと、ちょっと理解が難しい話になってきてしまうかもしれないのですが、大まかに要点を言うと、次のような四つの内容になります。

 まず第一には、宗教的な立場上、多くの人々が、できるだけ、大きな神仏の像を作りたくなるような気持ちは、私もよく分かるのですが、ただ、いくら、そうした大きな神仏の像が、目の前にあったとしても、基本的には、そうした神仏の像というのは、単なる神仏の象徴に過ぎない、ということは、よくよく理解して、祈りや瞑想の際には、そうした神仏の像自体には、絶対に自分の意識を合わせようなどとはせずに、自ら自身の霊的な感覚を研ぎ澄ますことによって、そうした神仏の霊そのものの方に、自分の意識を合わせるようにしないといけない、ということです(こうした時に、神仏の像自体の方に、自分の意識を合わせすぎると、「偶像崇拝」になってしまうので、霊的には、ほぼ完全に間違った信仰方法になってしまいます)。

 第二には、たとえ、どんなに素晴らしい祈りや瞑想法のようなものがあったとしても、基本的には、肉体に疲れが溜まっていたり、何らかの欲望や不平不満を溜め込むような状況になっていたり、あるいは、長時間の祈りや瞑想などで、すっかり集中力がなくなって、意識がもうろうとしていたり、それから、肉体や精神が、極度にこわばり、硬くなっているような場合には、そうした祈りや瞑想の中において、どんなにものすごい体験があったとしても、少し冷静な態度になって、あまり信頼しない方がよい、ということです。

 第三には、これは、よく誤解されることが多いようなのですが、基本的には、いかに神仏のことが大好きであったとしても、それと、誰か、この地上の世界の人物を高く持ち上げて、強く崇拝してしまうことや、常に自己卑下して、まるで誰かの家来や奴隷のように、何らかの命令に従わなくてはならないような立場に陥ることは、全然、関係ないことなので、これには、特に宗教的に熱心な人であればあるほど、強く注意する必要がある、ということです。

 それというのは、どんな人であっても、その人自身の精神的な平安や幸福を、しっかり強く守ろうとしてゆくと、どうしても、一人きりではなく、ある程度の人数の人々同士で集まって、そして、そうした人々の間で、ある程度、お互いに共鳴し合えるような精神的な教えや考え方に基づく共同体のようなものを作る必要性に迫られることが多い、ということまでは、私も、確かに理解できるのですが、ただ、それは、多くの人々の平安や幸福の実現のためなのであって、決して、誰か、ただ一人の独裁者のような人物を仰ぎ立てたり、多くの人々が、自ら奴隷のような立場に陥るために、そうした共同体を作るわけではない、ということは、よくよく細心の注意を払って、理解しておくべきなのではないか、と私は考えております。

 第四には、これも、とても問題が多いのですが、特に一昔前の身分制社会の人々や、それから、近年でも、十数年の学校教育において、あまりにも一部の人々のみを、よく考えてみれば、大した理由もないのに、ちやほや褒めそやして、仰ぎ立ててみたり、あるいは、大部分の人々が、「お前は、いつも100点(完全)じゃないんだ」、とか、「お前は、いつも上の人間の言うことを聞かないといけなんだ」、などと学ばされ続けた人々の中には、現在の自分の状況なんて、全くおかまいなしに、誰かものすごい人物や、偉大な神仏を見ると、そうした存在を過剰に仰ぎ立てることによって、まるで、自分まで、何となく、一緒にものすごく偉くなり、大成功したかのような精神的錯覚を持ってしまう人々が、結構、数多く出てきてしまうようなところがあるのです。

 実は、これが、古代、中世や、それから、近現代において、身分制の観念や、それから、義務教育などで、人間の上下の観念の強かった社会であればあるほど、神仏の権威や、一部の身分の高い人々の権力が強かった間接的原因になっている、ということなのですが、私の見方は、単純で、もし、このような形で、別に、その人自身を見れば、特に大成功して、幸福な生活をしているわけでもなく、また、知性的、道徳的に素晴らしい人間であるわけでもないのに、何となく、そうした何か特別な存在を持ち上げることによって、あたかも自分自身も、偉大になったかのように錯覚しているような場合には、もう少し、目を覚まして、冷静になって、現在の自分自身のあり方や周りの人々への対応を見直すと共に、そうした冷静で穏やかな精神性の中で、もう一度、本当に、自分自身に正直になって、そうした神仏と自分自身の関係を見直すべきなのではないか、と考えております。

※こうした精神性の人は、すぐに尊大になって、他人を馬鹿にしたり、いじめたり、平気を無理を押し通したりすることが多いわりには、本当の自分自身の心の平和や幸福というものを、ほとんど、つかめていないことが多いです。

 このように、霊的に見た、本当の信仰の立場というのは、単に神仏の像を拝むのでもなければ、形式ばかりを重んじるのでもなく、また、強い崇拝意識を持つのでもなければ、何か偉大なものに、自分自身の姿を重ね合わせて、偏向した倒錯意識を持つのでもなく、ただただ、自然自然のうちに、神仏を身近に感じ、神仏と自分が、まるで一つになったかのように感じられるような、自然体の幸福感の感覚があるものなのです。

 このように、これまでの地球上の宗教では、時折、「信仰」の立場と「愛」の立場が、ぶつかることが多かったのですが、要するに、霊的に見た、本当の信仰とは、決して、無機的で、硬直した、何も考えない状態ではなくて、神仏からの深い愛と、神仏への深い愛を、しみじみと感じるような「愛」の観点と、それから、一人の人間として、神仏を身近に感じられるような、自然体の幸福な生き方の中にこそある、ということを、よくよく理解すべきなのではないか、ということです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年12月27日 8:33 PM, 愛について



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