第三には、これは、もっともっと冷静でドラスティックな話になってくるのですが、実は、こうした観点から見てゆくと、「愛」には、非常に根本的な大問題があって、それというのは、多くの人々が、「愛」という言葉を口にして、深く信じ込んでゆくようになると、どうしても精神的な愛の部分と、現実の結果の部分が遊離してゆく傾向があるということなのです。
これも説明が難しいので、もう少し具体的な喩えをあげて、考えてみたいと思いますが、要するに「愛」という概念には、次の二つのような非常に致命的な欠点があるのではないか、ということです。
まず一つめの欠点は、まずは、どんな人であっても愛の気持ちを持つと、とてつもなく幸福、かつ非常に満ち足りた気持ちになるものなのですが、ところが、もし誰もが、愛の気持ちだけで十分に幸福になれるのであれば、そもそも何もしなくても幸福になれたはずなので、そうした点から見ると精神的な愛の心と、物質世界における努力や現実の状況というのは、どうしても若干食い違ってゆきやすいような点があるということです。
二つめの欠点は、これは現にこれまでの歴史において、多くの人々が、もうすでに散々体験済みの話になるのではないか、と思われるのですが、「愛」という概念を少し置き換えると、それが宗教的な愛や国家への愛や、民族や氏族や家族といった何らかのグループへの愛となり、さらにそれらの言葉をもう少し置き換えると、独裁主義や民族主義や、愛国思想やエリート主義などになってゆくということなのですが、そうすると今度は、そうした主義主張を元にして、「それなら他の宗教の人間は、いくら殺しても傷つけても構わないし、また、そうした人々の土地や財産を略奪しても構わない」とか、「それなら国のために他の国への侵略は当然だし、また場合によっては、自らの命を犠牲にするのも当然である」とか、「それなら自分達の血統や仲間とはみなされない人々は、身分的に完全に下の存在とみなして、どのような扱いをしても構わない」などというように、要するにそうした愛の理想をうまくねじ曲げることによって、これまで多くの人々を散々苦しめてきた暴力や略奪や、圧政や差別が、ごくごく簡単に正当化されて、あたかも、それが全宇宙の真理でもあるかのように誰も否定できなくなってしまうようなところがあったということなのです。
つまり「愛」という理念を使うと、かなり知性的に高い、あるいは、かなり道徳的に優れた人間ですら、現実の他の人々や生き物達への注意や配慮をすっかり忘れさせて、かなり異常な非人道的な価値観の世界に引きずり込むことができたということなのですが、これに関して、現在までに人類が考え得た最善の解決策は、せいぜい次のような二つの内容しかないということです。
まず第一には、これは、こういう説明の仕方をすると、ちょっと不思議に感じる方も多いかもしれないような内容になるのですが、要するに特に近代以降の民主主義の発展の過程では、どんなに宗教的、道徳的に立派なことを言っている人々や団体のようなものがあったとしても、そうした人々や団体に国家を全面的に支配させるようなことはせずに、よほどの緊急事態でもなければ、そうした人々も団体も、大多数の人々が信任する政府や法律の監督下や管理下に置くことにしたということです(ただ、残念ながら歴史的には、どの国も、いったん行き過ぎた、とんでもない状況になった後に、そうした制度に大改革していることが多かったようです)。
第二には、これは少し変わった話になるのですが、あまり多くの人々が、「愛」、「愛」(もしくは、何らかの「信仰」や「理想」)と浮ついた感じにならないように、これは問題点も非常に多いのですが、多くの人々がある程度、経済の原理に縛られるような生活形態にして、「愛」という言葉が、あまりに浮ついた非現実的なものにならないようにしたということです。
※昔は、宗教家や政治家が、普通の人々の感覚からすると、「え、そんなこと、できるわけないじゃない?」とか、「え、そんな意味のない大変なこと、守れるわけないじゃない?」というような、かなり現実から遊離した厳しい決まり事や戒律や道徳を一方的に言えたのは、彼らが、その地域におけるほぼすべての土地や財産を所有していて、普通の庶民とは、かなり異なる経済実態を持っていたからなのではないか、と思われます。
追伸
ちょっと思いの他、文章が長くなってしまったので、何回かに分けて、載せることにします。
Cecye(セスィエ)
2012年12月22日 9:02 PM, キリスト教 / 人生観、世界観 / 宗教、道徳 / 愛について / 政治 / 歴史 / 知恵、正しさ / 社会、文化 / 経済