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イエスについて Part 17

神仏と人間の間に、あまりにも強い上下感を持ったり、神仏に対して、あまりにも強い信仰信念のような思いを持つと、かえって、神仏と自分の間に、霊的な壁のようなものが生じて、霊的なコミュニケーションが、全く出来なくなってしまうことがあるので、注意が必要である

 それでは、こうしたキリスト教的な信仰は、いったい、どこが間違っていたのか、というと、大まかに言うと、大体、以下のような二つの点になります。

 まず第一には、どんなに偉大な光の存在であったとしても、その存在を、あまりにも自分よりも絶対的に上の存在であるとか、あるいは、自分が、あまりにも下の存在のように考えるような信仰のスタイルを持っていると、それ自体が、神仏と自分自身、あるいは、自分自身と他者とを二つに切り離す、二元性の原理に基づいた考え方であるために、残念ながら、五次元以上の世界ではなく、それより下の四次元世界にいる存在との交流しかできなくなってしまう、ということです。

 第二には、これは、キリスト教でも、他の宗教でも、原則、全く同じなのですが、神仏に対して、一定のイメージ、というか、一定の固定概念のようなものを、あまりにも強く押し付けすぎてしまうと、霊的に見た場合、神仏の側としては、「何か、その人に言いたくても、全然、その人に伝えることができない」、とか、「その人の考えていることが知りたくても、全然、よく分からない」、というような、言ってみれば、今日の感覚で言うと、いわゆる、大スターと、その一ファンのような関係になってしまう、ということなのです。

 つまり、その人の神仏に対する強い固定概念、というか、強いイメージのようなものが災いしてしまい、その人と、神仏との間に、目に見えない、霊的な硬い壁のようなものが発生して(たいてい、その霊的な壁のようなものには、その人自身から見ると、生前の信仰上の神仏のイメージが、ありありと映っていることが多いです)、神仏の側から見ると、「相手に対して、何か伝えたくても、全然、伝わらない」、とか、「相手の気持ちを知ろうとしても、間に硬い想念の壁のようなものがあって、なかなか、よく分からない」、というような状況になってしまうのです。

 その結果、その人自身としては、せっかく、一生懸命、神仏を信仰してきたつもりなのに、あまりにも強い信仰上の信念のようなものを持っていると、そうした信念が災いして、死後、自分の目の前に、せっかく、本物の神仏のような存在がやってきて、その人を、何とか正しく導こうとしているのに、それが全く不可能になってしまう、とか、そうしたチャンスを、みすみす逃してしまう、というような大変な事態になってしまうことがある、ということなのです。

 

本当の信仰とは、神仏を強く念じ、拝み倒すのではなく、常に自らの心を精妙にして、穏やかで平安な心になり、ただただ、純粋に、神仏を愛し、神仏からの愛を感じながら、いつでも自由に、心の中で交流し合えるような精神状態を確立することである

 ですから、こうした点から考えてみると、自分が、もし、宗教によって、死後の世界においても、正しい救いを得たいと考えるのであれば、次のような三つの心掛けが、非常に重要になります。

 まず第一には、信仰が大事であると言っても、あまりに強い信念を持って、その神仏を拝み倒すような精神態度は、絶対に持ってはいけない、ということです。

 第二には、神仏を、自分よりも、絶対的に上の存在であるとも、また、自分が、いくら命令し、自由に使ってもいいような、絶対的に下の存在であるとも考えずに、常に、神仏に対して、穏やかで、リラックスした、自然な平安な気持ちと、愛し、愛されるような気持ちを持って、接することが、とても大切になります。

 第三には、神仏に対して、あまりにも一方的に、一つのイメージや強い念のようなものを当てることは、厳に慎み、神仏のような光の存在達に対して、純粋に、自分の意識を向けて、心の中で交流し合うような、祈りや瞑想の機会を持つことが、とても大切になります。

 こうした三つの心掛けを持っていないと、現在の地上の世界では、いくら生前、何らかの神仏を信じて、一生懸命、信仰していたとしても、いざ死後の世界に行ってみると、本当の神仏や天使や菩薩のような光の存在達に見守られながら、永遠の至福の生活をしている、五次元以上の、本物の天国の世界には、全く行けずに、それより下の四次元世界の中の、地上の世界とほとんどそっくりの幽界や、いっけん、本物の天国と非常に似ているのだけれど、よく調べてみると、全く違う、疑似天国のような世界や、あるいは、地獄の世界と、地上の世界の間で、さっき死んだと思ったら、気がつくと、また、何度も何度も生まれ変わってきている、などというような大変な事態に陥ることがあるので、霊的に見ると、非常に危険なところがあった、ということなのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年1月11日 9:07 PM, キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観 / 瞑想



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