もし、生前、熱心にキリスト教を信仰していたにも関わらず、死後、地獄のような世界で苦しむことになった場合には、単に信じるのではなく、自分の周りの状況を、よくよく冷静に調べ直し、考え直すような、「適度に信じ、適度に疑う」ような精神性を持てるようにならないと、いつまで経っても、そうした地獄のような世界から抜け出せなくなることがあるので、注意が必要である
こうした状況から考えてみると、非常によく分かると思うのですが、もし、自分が、キリスト教徒であったにも関わらず、死後、真っ暗な地獄のような世界に赴くことになってしまった場合には、私の調べた結果としては、ほぼ十中八九は、その人自身の生前の罪の結果、死後、赴くことになった、本物の地獄ではなくて、そうではなく、実際には、何のことはない、生前のその人の信仰、つまり、キリスト教信仰の結果、死後、その人自身が、生前からの強い信念の投影の結果、作り出した、一種の幻影、もしくは、一種の仮想現実のような世界であった、ということなのです。
それゆえ、もし、死後の世界において、キリスト教信者の人が、「自分は、生前、それほど悪い人間ではないと思っていたにも関わらず、とんでもない地獄に行くことになってしまった」、と嘆くような事態になった場合には、「信じれば、救われる」、というようなキリスト教のテーゼは、その場合には、全く効力を持たずに、逆に、強く信じれば信じるほど、そうした地獄のような世界のリアリティーが、より強くなり、そして、自分自身も、より苦しくなる、というような、とんでもない状況に巻き込まれることがあるので、こうした場合には、少し冷静になって、「この自分の周りの現実は、本当に現実なのか?」、とか、「自分の目の前にある、地獄の責め苦や悪魔は、本当に現実なのか?」、ということを、よくよく疑い、いろいろな方法で調べ直し、考え直してみて、もし、それが、正しい現実でないと分かった場合には、残念ながら、「自分が、生前、あれほど熱心に信じていた、キリスト教には、どこかに間違いがあったのではないか」、というように、冷静に判断し直してみて、そこからの脱出と再起を図ることが、急務になる、ということが言えるようです。
※つまり、この場合には、別に、「すべてを疑え」、というわけではないのですが、「適度に疑い、適度に信じる」、とか、ある程度、自分で調べたり、考えたりして、納得できた部分については、信じるが、そうでないものについては、すぐに100パーセント信じるなんて態度は、絶対にとらずに、100パーセント肯定するわけでもなければ、100パーセント否定するわけでもないような、あまりはっきりと白黒つけないような、グレーな態度を持つことが、非常に重要になってくる、ということです。
Cecye(セスィエ)
2012年1月7日 9:07 PM, キリスト教 / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観