2、人間社会や自然界の現実を見る限り、この宇宙の創造主は、明らかにワンネス主義反対派であり、そうした「多様主義」、「個性主義」の、この宇宙の創造主の下で、現在の地球の文明や自然界のような、お互いの違いを楽しむ非常にバラエティー豊かな人類の文明や自然界が創られてきた
第二には、これは、あまり考えたことのない人が多いのではないか、と思われる内容になるのですが、実は、この宇宙の創造主と呼ばれる存在は、基本的に今述べたような「ワンネス」と呼ばれるような考え方には、反対の存在であったのではないか、ということです。
その理由は、世の中の現実を見れば、誰でも一目瞭然なのではないか、と思われるのですが、とにもかくにも世の中の現実を見てみると、「人間の顔形や皮膚の色や姿形が全く違う」、とか、「動植物の性質や姿形が全く違う」、とか、「自然界の鉱物の性質や景色や環境が全く違う」、などというように、どう考えてみても、この宇宙の創造主のような存在というのは、ワンネス思想ではなくて、バラエティー派、というか、かなり個性豊かな違いのある世界を意図的に創造していったとしか全く言いようがないのではないか、ということなのです。
この宇宙の創造主が考えた多様主義や個性主義は、あらゆる人間や生物が、誰も犠牲になることなく、すべて最高にハッピーな状態で共存する世界であったが、その反対に、反創造主の考えた多様主義や個性主義は、お互いに殺し合い、奪い合う地獄の生存のような世界であった
つまり、この宇宙の創造主は、この世界の現実を見る限り、どちらかと言うとワンネス主義なのではなくて、「多様主義」、というか、「個性主義」、というか、違いを愛する性質の持ち主だったのではないか、というように率直に理解される、ということなのですが、ところが、ここで問題なのは、こうした多様性、というか、個性の違いの中には、この宇宙の創造主が最初から意図して、考えた内容と、どう考えてみても、彼が最初から考えたとは思えない内容の二つの内容がある、ということなのです。
その内容は、これは、現在でも多くの宗教や哲学で、なかなか結論が出ない問題の一つになっているようなのですが、要は、そうした多様性や個性の違いがあるのは分かるけれども、それでは、いったい、どこまでそうした多様性や個性の違いから発生する、それぞれの人間や生物間の利害の対立、というか、苦痛や被害というものを認めてよいのか、という問題であるのです。
簡単な例をあげると、例えば、ここに二つの生き物がいるとして、一つが生き残るためには、もう一方の生き物を殺して、食べなくてはならない、というような状況が、現在の地球の自然界では、わりと当たり前の日常の風景の一つとして見受けられるのですが、それでは、そうして殺して、食べる側の生き物の利益や幸福と、それから、その反対に殺されて、食べられる側の生き物の利益や幸福というのは、お互いに、いったい、どの程度、守られるべきなのか、という問題があるのですが、実は、こうしたケースの場合、これは、現在の地球の宗教や哲学では、まだ全く聞いたことのない話になると思うのですが、この宇宙の創造主の元々の考え方というのは、もし、そこに二つの生き物がいるとするなら、「何もお互いに相争って、食うか、食われるかの生存競争などしなくてもよいではないか。そうではなく、お互いに最高にハッピーで快適な生き方を模索してゆけばよいのではないか」、というような考え方であったのです。
そして、そうした創造主の理想の下に創られていったのが、この文章で何度も述べているような、いわゆる、この地上の世界では、「天国」とも呼ばれているような「高次元世界」と呼ばれている世界であり、その反対に、彼の考え方とは全く正反対の考え方、つまり、「お互いに食ったり、食われたり、あるいは、取ったり、取られたりするのが、一番良いのではないか」、というような反創造主的な考え方に基づいて、創られていったのが、現在、私達が活動している、この「低次元宇宙」と呼ばれる場所になっていた、ということなのです。
Cecye(セスィエ)
2011年10月4日 9:13 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 宇宙文明、古代文明 / 宗教、道徳