さて、そうすると、次には、こうした守護霊の話とよく似た非常に難しい問題にぶつかってゆくことになるのですが、それは、いったい、何なのか、というと、もし自分をいろいろな災難から守ってくれるだけでなく、自分の人生をより良い方向に導いてくれる存在がいるとしたら、それは、いったい何なのか、というテーマになるのですが、これが意外と考えてゆくと奥が深くて、そう簡単には、結論が見いだせないような問題になってくるのではないか、ということなのです。
現在の地球では、「守護霊」と「神仏」の存在が、大変、混同されているようなのだが、霊的に見ると、多くの人々が、「神仏」と崇めている霊的な存在というのは、何のことはない高次元宇宙にいる、より精妙な自分自身の意識であることが多い
つまり、前に述べたような「守護霊」と呼ばれる存在というのは、目に見えない形で、いろいろな事故や災難から自分を守ってくれたり、あるいは、自分の人生が、より良い方向に進むように、霊的な形で何らかのガイドをしてくれるような存在であるのではないか、と考えられるのですが、ところが、これは、よく考えてみると、多くの人々が信仰している「神仏」の役割とかなりダブっている部分がある、ということなのです。
そうすると、そうした「神仏」と呼ばれる存在と「守護霊」とは、いったい、どのような関係が生じることになるのか、というと、これが、非常に難しいのですが、実は、私が、霊的にいろいろ観察した結果、ここで、はっきりと言えるのは、現在の地球において、本当に「神仏」と呼べるような存在というのは、このブログで何度も述べているような、この「宇宙の光の創造主」と呼ばれるような存在しかいない、ということと、もう一つは、多くの人々の期待や思い込みとはかなり違って、たいていの人が、「神仏」と思って、自分の人生の加護や指導を頼んでいる霊的な存在というのは、何のことはない、より高次元世界にいる、その人自身であることが、ほとんどすべてなのではないか、ということなのです。
つまり、現在までに私が、「高次元宇宙」と呼ばれるところを、いろいろ調べた限りにおいては、「釈迦」にしても、「イエス」にしても、はたまた、それよりもっと上にいる「神仏」のような存在であると言われている「ヤハヴェ」や「エローヒム」や「アッラー」と呼ばれる存在にしても、元をたどると、ほぼただ一つの存在、つまり、この「宇宙の光の創造主」と呼ばれる存在が、いろいろな人間的な個性でもって、霊的な形や物理的な形で多くの人々を導いていただけであったのではないか、ということが判明しているので、はっきり言うと、世界中のどの宗教のどの神仏のような存在であったとしても、その元々の霊的なルーツをたどってゆくと、この「宇宙の光の創造主」と呼ばれるような、ただ一つの存在であるとしか全く言いようがないのではないか、というように感じているのです。
さらに、それに加えて、そうした光の創造主の下で、高次元宇宙や、それ以下の世界において、さまざまな活動を行っている「光の存在達」がいるのですが、彼らは、私が知る限り、実は、より高次元宇宙にいる、みなさん自身であるとしか全く言いようがない、ということなのです。
そうすると、ここで最初の守護霊の話に戻ると、もし、その人が、守護霊の存在を信じているとすれば、それは、高次元世界にいる自分自身のより精妙な意識存在のことを、そう理解している、というように考えることができるし、また、その反対に、もし守護霊の存在を信じていないのであれば、それは、そうした高次元世界にいる、もう一人の自分なんて受け入れていないか、もしくは、そうした高次元世界にいる自分自身の意識なんか頼りにしなくても、自分が、ちゃんと責任をもって、主体的に人生を生きてゆくから何も問題ない、というように考えているかの、いずれかなのではないか、ということなのです。
※厳密に言うと、「ヤハヴェ」と呼ばれる存在は、この宇宙における唯一にして、至高の光の創造主とは、異なる存在であるのですが、ただ、ユダヤ教やキリスト教を信仰している多くの人々は、「ヤハヴェ」を、この宇宙の創造主と完全に混同して、同一視しているようなので、ここでは、「ヤハヴェ」という名称も使いました。実際には、数千年前の中東で、この宇宙の創造主のように考えられていた光の存在は、「エール(エル)」、あるいは、「エローヒム」、などと呼ばれていたようです(現在、幾つかの宗教で、「エール(エル)」や「エローヒム」や、あるいは、「エル○○」と類似した名前を名乗っている人達がいるようですが、ここで言う「エール」や「エローヒム」と呼ばれる存在は、そうした人達とは、一切、関係ありません)。
※霊的には、この宇宙の唯一にして、至高の光の創造主のことを「主(しゅ)」と呼ぶことがあります。ただし、キリスト教では、そうした創造主とも同一視されるようなキリスト意識の一部である「イエス・キリスト」や「聖霊」のことも「主」と呼ぶことが多いようです。それから、日本の神道の「天之御中主神(あめのみなかぬし)」の「主(ぬし)」は、もし、そうした天之御中主神を宇宙の中心の神のような意味として、捉えた場合には、比較的、そうした「主」の意味に近いようなところがあります(ただし、日本の標準語で「主」と言った場合には、単なる主人や土地や物の持ち主のような意味で「主(ぬし)」と呼ぶことも多いようなので、この場合は、全く違う意味になるのですが・・・)(参考)。
この宇宙の光の創造主は、確かにものすごい愛や知恵の持ち主であることは事実なのだが、だからと言って、何の人間的な感覚や感情もないような、非人間的な機械的な存在ではないので、その点、現在の地球上の多くの宗教では、かなり誤った理解と認識をしているように見える
さて、それでは、この「宇宙の光の創造主」と呼ばれる存在というのは、いったい何なのか、というと、これが、みなさんの思い込みとはかなり違って、私が知る限り、どう考えてみても、確かにものすごい愛や知恵の持ち主であるということ自体は事実であるのですが、ただ、それ以外の部分に関しては、はっきり言って、普通の人間と、大して変わりないような感覚を持っているように感じられる、ということなのです。
つまり、普通の人間が、「楽しい」という感覚があるなら、そうした宇宙の創造主であっても、普通に「楽しい」という感覚があるし、また、普通の人間が、不条理なことをされたら、「怒る」というような感覚があるなら、そうした宇宙の創造主であっても、やはり、あまりに不条理なことをされたら、「怒る」というような感覚が、普通にあるようなのです。
その点、現在の地球の宗教であると、たいてい、そうした神仏のような存在というのを、かなり人間離れした形で神聖視しすぎていて、「そうした神仏のような存在なら、別に、これくらい、ひどいことをしても全然怒らないだろう」、とか、「神仏なら自分達の罪や不幸を引き受けてくれるのは、全然、当たり前だ」、というような宗教観をまるで当たり前のように押し付けてくるところがあるのですが、これは、例の闇の勢力によって、かなり周到に仕組まれた地球規模での宗教文化による、この宇宙の創造主を初めとするような光の存在達への封印と呪縛、つまり、霊的な加害行為以外の何物でもないのではないか、というように率直に感じております。
Cecye(セスィエ)
2011年9月22日 9:11 PM, おすすめ記事 / スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観 / 宇宙文明、古代文明