2、何かやる時には、できるだけ心から楽しんでやる精神的習慣を身につける
第二には、これは単純に、とにもかくにも何かやる時には、楽しんでやることがとても大切であるというような話になってくるのですが、この場合、問題なのは、実は多くの人々は、子供の頃に学校教育を受けている間に、本人としては全く気付かぬうちに、基本的に何をやるにしても、決して楽しんでやってはいけないというような訳の分からない不幸教育を受けるようなところがあるということです。
つまり、たいていの人は、約十年以上に渡って、「学校」と言われる所において教育を受けることになるのですが、その際に原則、「どんなに楽しくてもニコニコしたり、大声で笑ってはいけない」とか、「どんなに嫌なことでも嫌な顔をしたり、文句を言ってはいけない」とか、「どんなに楽しいことが思い浮かんでも、周りの人にしゃべってはいけない」とか、「どんなに馬鹿らしいことであると感じても、それを口に出して改善の提案をしてはいけない」というような訓練をされることになるのです。
ところが、これは言葉を変えると、「幸福なことを一切幸福と感じてはいけない」とか、「不幸なことも、一切不幸と感じてはいけない」というような「反幸福教」、もしくは、何も感じないようになるための「不感教」というか、もっとはっきり言うと、単なる不幸な感じ方や考え方をマスターするための「不幸教」を教えるための教育になっているようなところがあるということなのです。
つまり、そもそもの学校そのものの理念というか、目標というものをその原点から考え直してみると、「一人一人の子供が将来、経済的に自立した民主主義国の市民にふさわしい、市民としての知識やスキルを身につけられるようにする」ということにほとんど尽きているようなところがあるのですが、ところが現在の学校教育というのは、そうした学校教育の理念や目標から完全に逸脱して、「政治家や役人が統治しやすいような、基本的に何でもハイハイとお行儀よく従ってゆくような非常に受け身の奴隷的な精神性を身に付けさせる」とか、「自分自身の本音の感覚や感情をがっちりと押さえてつけて、何の幸福も不幸も分からないような、まるで機械やロボットのような精神性を身に付けさせる」というような学校教育がかなり強硬に行われているようなところがあるので、はっきり言って、これは民主主義国の市民教育の内容としては、かなり逸脱した間違った運営方針が貫かれているのではないか、ということなのです。
さて、このような形で多くの人々が、本当は民主主義国の市民教育としては、かなり逸脱した形の間違った一種の「不幸教」のような学校教育を受けたということを前提として、最初に述べたような「できるだけ何をするにしても楽しんでやる」というような幸福主義のあり方について述べてみたいと思うのですが、はっきり言うと、こうした不幸教の学校に十数年の間、ずっぽり浸かってしまった人というのは、社会に出て自立して、家庭を築いたとしても、なぜか「やるべきことはやっている、だけど、それは単なる義務を果たしているだけで、何の幸福感も感じられない」とか、「何かのゲームやレジャーをやったとしても、何となく一生懸命集中してやっているだけで、よく考えてみると、すぐに結果や他人の目が気になって、あまり心から楽しむことができない」などというように、実は、何らかの形でそうした学生時代に徹底的に叩き込まれた自分自身の精神的な傾向を大幅に修正できない限りは、その後、いつまで経っても、学生時代とほとんど同じような「反幸福主義」というか、「不感」状態のまま(具体的な症状としては、いわゆる、ずっと無表情のまま生活し続けているような感じ)、そのまま一生を過ごしていってしまうようなところがあるということなのです。
それでは、多くの人々が、子供の頃の学校教育において、こうした「不幸教」の洗礼のみならず、説教や修行まで十数年に渡って、たっぷり受け続けたということを前提として、先ほどの「できるだけ何でも楽しんでやる」というような幸福主義のあり方を実践しようとした場合には、何が大切になるのかというと、大体、以下のような五つの内容になります。
①何をする時にも、できるだけ心から楽しんでやるような精神的な習慣を身につける
まず第一には、これは単純に勉強でも仕事でも家事でも、何をするにしてもあまり深く考えずに、できるだけ何でも楽しんでやるということを、自分自身の日頃の精神的な習慣にするということです。
つまり外を歩く時もテレビやネットや本を見る時も、また家族や友人と過ごす時も学校で勉強する時も、それから会社で仕事をしたり、家で家事をする時にも、とにもかくにも自分自身に言い聞かせるように「自分は今、やることを心から楽しんでやる」とか、「いつでもどこでも、できるだけ楽しんで過ごす」ということを、自分の日頃の精神的な習慣にするように努力してゆくということです。
Cecye(セスィエ)