今回も、前回に引き続き、前に書いた文章からの抜粋になります(途中からで、分かりづらい方は、もう少し前の所から、お読みになることを勧めます)。
単なる宗教的な信仰や努力だけで、人々の間の恐怖心や怒りや憎悪の感情の解決をしようとしていると、実際には、低次元の波動領域(幽界)と地上の物質世界の間における、ほとんど無限に続くような不毛の生まれ変わりの連鎖の過程に、はまってしまうことが多い
それでは、こうした恐怖心と、怒り、もしくは、憎悪というのは、一体、どのような意味で危険なのか、というと、まずは、恐怖心にしても、怒りや憎悪にしても、人によって、いろいろな感じ方や表現の仕方があるので、一概に、これだけが、恐怖心や怒りや憎悪の内容であるとは、なかなか言い切れないような面も、確かにあるのですが、そうした恐怖心や怒りや憎悪の根源に当たるような要素というものを、再度、冷静に分析し直してみると、大体、以下のような内容になるのではないか、というように、私は考えております。
まず一つめの恐怖心の内容としては、これは、具体的な状況としては、実際、いろいろとあり得るのですが、要は、自分の表面意識の記憶に、はっきりと残っているかどうかは、ともかくとして、現在の人生における過去の体験か、もしくは、現在の人生以前の過去生における人生の体験において、「ものすごく痛かった」、とか、「ものすごく苦しかった」、などというような非常に苦痛や驚愕を伴う、大変、不幸な苦しい体験をしたことによって、それによって、「もう二度と、あんな目には遭いたくない」、とか、「今すぐ、逃げ出さないと殺される」、などというように、特定の何らかの存在や事態に対して、ほとんど反射的に萎縮して動けなくなってしまう、とか、ほとんど反射的に隠れたり、逃げ出したくなってしまう、などというような表面意識で、はっきり自覚されるような非常に切実な感情、もしくは、潜在意識の中に隠れた非常に根深い感情のことである、ということが言えます。
それから、二つめの「怒り」、もしくは、「憎悪」の内容としては、これも具体的な状況としては、実際、いろいろとあるのですが、要は、これも、自分の表面意識の記憶として、はっきり残っているかどうかは、ともかくとして、現在の人生における過去の体験か、もしくは、それ以前の過去生における人生の体験において、何らかの存在から、「大変な苦痛を与えられた」、とか、「とんでもない、ひどい目に遭わされた」、などというような非常に苦痛や驚愕を伴う、大変、不幸な苦しい体験をさせられたことによって、それによって、「何か、やり返してやらないと、絶対に気が済まない」、とか、あるいは、「どんなに時間がかかっても、絶対に、何か仕返しをしてやる」、などというように、何らかの特定の存在に対して、ほとんど反射的に危害を加えたくなる、とか、自分の心の奥底から、何らかの加害行為や破壊行為がしたくなる、などというような、表面意識で、はっきり自覚されるような非常に切実な感情、もしくは、潜在意識の奥に潜んだ、非常に根深い感情のことである、ということが言えます。
さて、こうした恐怖心や、怒り、もしくは、憎悪の感情というのは、地球の宗教や道徳などにおいては、一般に、「信仰や精神的な努力によって、しっかりと克服すべきものである」、とか、「そうした感情を乗り越えた宗教的な許しや平安の境地こそが、偉大な信仰や悟りの境地なのである」、というような解釈や説教をされることが、非常に多いのですが、ところが、ここで問題なのは、近年の心理学の発達などによっても、だんだん明らかになってきているように、実は、人間の精神の働きにおいては、たとえ表面意識のレベルにおいて、「相手のことを悪く思わない」、とか、「相手のことを心から許した」、などと思えたとしても、潜在意識のレベルにおいては、本当は、相変わらず、相手のことを、非常に憎々しく思い続けていることがあったり、あるいは、相手が、心からの謝罪や償いの行為をしないのであれば、自分が、何らかの仕返しに当たるような行為をしないと、絶対に納得がいかない、などと、心の奥では、ずっと考え続けているようなケースが、実際には、ほとんどすべてであった、ということなのです。
そうすると、この世界では、一体、どのようなことが起きるのか、というと、たとえ、地上の世界における、お互いの人間関係において、「私達は、心から和解した」、とか、「私は、相手の罪を完全に許した」、などと、常々、公言していたとしても、そうした人生の後の死後の世界においては、どんな人であっても、その人の精神活動としては、生前のような肉体を伴った形の表面意識を中心にした精神活動ではなく、魂による精神活動、つまり、その人の潜在意識が、ほとんどメインの精神活動になってゆくので、その結果、その人の心の中に秘められていた、ほとんどすべての考えという考えや、ほとんどすべての感情という感情が、完全に、その人の意識の表面に出てきて、その人の姿形や行動に如実に表されるようになったり、あるいは、その人のいる周りの世界の様子というものを、如実に決めるようになってしまうのです。
それゆえ、そうした純粋な精神世界での生活において、先ほど述べたような形で、自分の心の中に、強いわだかまりがある、とか、自分の心の中に、強い抑圧された感情、つまり、今述べているような恐怖心であるとか、強い怒りや憎しみのような感情を抱えてしまっているような場合においては、どんな人であっても、そうした霊的世界での生活を、全く落ち着いて送ることができなくなってしまうので、その結果、これは、キリスト教圏の方には、非常に意外な話になるのでしょうが、そうした人々というのは、東洋のカルマの法則が説明している通りの生まれ変わりの過程、つまり、物質世界で亡くなったかと思うと、ほとんど無意識のうちに、すぐに次の生まれ変わりのためのプロセスに入り、それ以前の人生における自分の心の奥に潜んだ、精神的なわだかまりであるとか、心の奥に抑圧していた恐怖心や怒りや憎悪といった感情の解放のための新たな人生を、わりと短期間のうちに、それこそ、何度も何度も頻繁に送り直すような霊的な状況になってしまうことが、非常に多かった、ということなのです。
これは、巷のニューエイジやスピリチュアリズムなどで述べられているような一般的な生まれ変わりの過程、つまり、その人が、地上の世界に生まれ変わる前にいた霊的世界において、自分の心からの満足や自己実現を求めて、冷静に計画を立てて、最高の人生を送るために、再度、地上の世界に、新たに生まれ変わる、というような生まれ変わりの過程というよりかは、過去の人生における自分としては、全く納得がいかないような不平不満の結果や、あるいは、無念の結果を、何とか、手っ取り早く取り繕(つくろ)うために、これは、はっきり言うと、ほとんど、出たとこ勝負というか、ほとんど行き当たりばったりのような、結構、めちゃくちゃな生まれ変わりの連鎖の実態になってしまうことが、非常に多いのですが、その魂としては、とにもかくにも、何らかの生まれ変わりの機会を見つけると、本当に片っ端から、何度でも、何度でも、ほとんど無意識のうちに、人間や、その他のさまざまな生き物としての生まれ変わりを、次々と、ほとんど無限と言ってもよいほどの数、えんえんと体験し続けてゆく、というような、まさしく、東洋の宗教で説かれているようなマイナスのカルマの連鎖や、あるいは、それによる無数の生まれ変わりの輪廻の中に完全に埋没したまま、なかなか出てこれなくなってしまうような魂達というのが、これまでのような光と闇の時代においては、実際、本当に非常に多かった、ということなのです。
これは、地上の世界の感覚で言うと、まるで博打で勝てなかったり、宝くじで当たらなかったような人が、何度も何度も、「今度こそ、勝てるかもしれない」、とか、「今度こそ、当たるかもしれない」、などと考えて、博打を繰り返したり、宝くじを買い続けたりするのと、精神的には、あまり変わらない風景である、ということになってしまうのですが、実は、そうした肉体を失った段階での死後の世界の生活においては、自分の心の奥に隠れた強い感情的なわだかまりであるとか、強い精神的な欲求というものが、本当に自分の表面意識の全面に出てきてしまうために、「今すぐ地上の世界に戻って、あのやりたかったことの続きをしなければ」、とか、「今すぐ、前の人生の怒りを晴らさないと、気が済まない」、とか、「今すぐ、前の人生での失敗の償いをしたい」、などというような、はっきり言うと、ほとんど精神病患者寸前のような、非常に強迫的で、差し迫った衝動や欲求というものが、全く抑えられなくなってゆくようなことが、非常に多いので、その結果、そうした人生を送った人々というのは、霊的世界に落ち着いて住む、というよりかは、常に地上の世界の辺りを、ふらふらと彷徨っては、「何とか、そうした願いが叶えられないか」、とか、「何とか、どこかに生まれ変わりの機会はないか」、などと考えては、地上の世界や、地上の世界に近い非常に低い霊的世界の領域(幽界とも言いますが)の間に、いつまでもいつまでも留まり続けるようなケースが、これまでの地球の歴史においては、非常に多かった、ということなのです。
Cecye(セスィエ)
2011年6月27日 9:02 PM, アセンション・シリーズ 4