もちろん、人間の肉体的、あるいは精神的な感覚として、「これは心地よいのでよいが、これは痛いから嫌だ」「これはおいしいのでよいが、これはとてもまずいので食べれたものではない」などというように、はっきり快不快や幸不幸を感じて、その良し悪しを決めたり、また、「これはしっかりできていれば、普通に生活できるけど、これがしっかりできていないと、もう今日にも生活に困る」「これはある程度以上のものでないと使えない」などというように、学業や仕事や生活などで、どうしてもある程度以上のレベルが要求されるものに関しては、きっちり良し悪しを決めるしかないのではないか、と思われます。
しかし、ここで問題なのは、そうした人間の肉体的、精神的な感覚による良し悪しや、実際の学業や仕事や生活上の良し悪しだけでなく、そうした様々な経験の過程で、「ああ、これはなかったのか。本当にがっかりしたな・・・」「これがうまくいったので、自分はものすごく嬉しい!」「自分は、これくらいしかできないのか・・・」「みんなにこんなに褒められたり、祝福されるなんて、ものすごく嬉しい」などというように、そうした様々な経験のたびに、それぞれの人が、それぞれの人の感覚として、様々な快不快を味わったり、幸不幸を感じたりしているようなところがあるということなのです。
そうすると、こうした人間の性質から言える内容としては、要するに人間というのは、常にその時々において、やらなくてはならない学業や仕事や生活をきっちりこなしてゆこうとするようなところはあるのですが、しかし、それと同時に、常にその時々のそうしたそれぞれの人の体験の中で、いろいろなことを感じたり、考えたりし続けてゆくようなところもあるということです。
それゆえ、それぞれの人が、その人自身として、できるだけ不幸にならずに最も心地よく幸せに感じながら生きてゆくための何らかの学びや、経験的な知恵のようなものをある程度しっかり獲得し、習得しておくようにしておかないと、結局、その場その場で行き当たりばったり的に、「さっきはとても心地よかったが、今度はとても苦しかった」「この前はとても不幸な気持ちになっていたが、今は、とても幸せな気持ちになった」などというような人生を送ってゆかなくてはならなくなることがあるので、多少注意が必要なのではないか、ということです。
Cecye(セスィエ)
2023年2月18日 9:03 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 人生観、世界観 / 健康、医療 / 宗教、道徳 / 政治 / 知恵、正しさ / 社会、文化 / 経済