少し前にかぐや姫について書いたのですが、それに関連して、聖徳太子についても質問が来ていたので、今回は、ほんの少しだけ、聖徳太子について、述べてみたいと思います。
「聖徳太子」というと、日本の古代の代表的な偉人の一人であるのですが、現在も歴史的には本当に実在したのか、それとも実在していなかったのか、ということすらよく分からないところがあるので、若干、歴史的には怪しいところがあるようです。
さて、それはともかくとして、ここでは、霊的に見た聖徳太子の実像について、考えてみたいと思うのですが、まず、これは大変残念なお知らせになるのですが、霊的に見る限り、飛鳥奈良時代の辺りに、後世、「聖徳太子」と呼ばれるような人物は、実際には存在していないようです。
それでは、聖徳太子のモデルになるような人物は、実際にいたのか、ということが次の関心事になってくると思うのですが、どうも霊的に見た感じでは、これは次のような幾つかの話を元に、平安時代の辺りに創作された話のように思われます。
まず一つは、飛鳥時代の辺りに、当時、かなり高徳で知られていた偉大な王(摂政ではなく)が、日本を統治していたようなのですが、その人物が聖徳太子のモデルになっているようです。
二つめは、これは現在、歴史的には、すでに多少証明されているようなのですが、飛鳥時代の辺りの高僧の話が、かなり脚色されて、聖徳太子の話に付け加えられているように思われます。
それから三つめは、これは、かなり意外な話だと思うのですが、一部の霊的な人々が指摘しているように、実は、聖徳太子のモデルになった人物は、現代の日本には全く伝わっていない、いにしえの時代の別の王朝の人物も含まれていたように思われます。
それから四つ目は、これも意外な話なのですが、実は聖徳太子のモデルとなった人物は、男性だけでなく、優れた女性の話も含まれていたように思われます(おそらく推古天皇の話の元?)。
ですから、聖徳太子のモデルとなるような優れた人物が、古代の日本にいたことまでは、確かにある程度事実と言えるようなのですが、それでは実際に、後世、聖徳太子と呼ばれるような人物が、当時の天皇の摂政として存在していたのか、と言われると、実際には存在していなかったようなのです。
そうした観点から見ると、おそらく、聖徳太子の話は、後世、平安時代の辺りに、当時の王家の権威を高めるために創作された、一種の理想化された聖人談だったように思われます。
※多分、後世、一部の人々が、聖徳太子をとても尊敬していたのは、当時は、現代とは歴史の感覚がかなり違っていたので、聖徳太子のモデルとなった、伝説上の聖人をとても尊敬していた、というような感覚だったのではないか、と思われます。
※あと、聖徳太子の話には、「厩戸(うまやど)」とか、「馬子」や「入鹿(いるか)」とか、少し後の日本ではあまり使われないような、かなり特殊な(ある意味、蔑視的な?)名前や地名の呼び方が随所に出てくるので、いくら当時の日本人が、漢字の使い方に慣れていないとは言え、かなり不自然な感じがします。当時は、中国語に達者な帰国人もいたはずですし、それから、当時の中国に留学した人間はかなりの知識人だったと思われるので、おそらく、後の政権の都合で、後から名前は適当につけられたのではないでしょうか?
追伸
これは霊的に見た見解なので(多分、学術的にも合っているとは思いますが)、学校の試験を受ける人は、歴史の話は、単なる暗記のための知識程度に理解して、一応試験は通るように頑張ってください。
Cecye(セスィエ)