今回から、何回かに渡って、中国思想について、述べてみたいと思います。
まず最初に、「陰陽」(いんよう)の思想について、述べたみたいと思うのですが、これは、 これは、この世の中にある万物を、すべて、「陽」、つまり、ポジティブな側面と、それから、「陰」、つまり、ネガティブな側面の二つに分けて、物事を理解しようとしたり、あるいは、それらのバランスをとることによる、調和や幸福を実現しようとするような考え方になります。
これは、中国の宗教思想では、ほぼ中心の核であると言っても過言ではないような、非常に重要な概念であるのですが、ところが、これは、霊的宇宙的に見た場合には、本当は、かなり問題が多い、というか、もっとはっきり言うと、別に、何もしなければ、そのまま仲良く調和して、幸福に過ごせそうなものを、なんでもかんでも、対称的な二つに分けて、お互いに競わせたり、争わせたりするような、かなり危険な働きも持っていた、ということなのです。
それでは、こうした陰陽説の、いったい、どこに問題があるのか、というと、大体、以下のような三つの内容になります。
1、「世界の万物は、すべて相反する二つの要素に分割される」、というような「陰陽説」と、現実の世の中の実態というのは、大きく違っていて、現実の世の中では、「いったい、何を基準にするか」、ということによって、陰にも、陽にもなりうるものが、たくさんあるし、また、なぜか、何でも物事を二分割して、考える人は、無感覚で、あまり深く考えないような、不幸な精神性を持ちやすい、という思想的大欠陥があるように見受けられる
まず第一には、確かに、物事を見る時に、「明るい」と「暗い」、とか、「暖かい」と「冷たい」、とか、「男」と「女」、とか、「白」と「黒」、などというように、対称的な二つの要素に分けて、いろいろと比較してみたり、あるいは、それらのバランスをとろうとしてゆくと、ある程度は、何でも、よく分かったような気分になってくるものなのですが、ところが、世の中の実態というものを見てゆくと、そうは、簡単に、何でもかんでも、対称的な二つの要素に分けられるものではないし、また、場合によっては、かえって、二つに分けると、いろいろと混乱や争いが起きたりして、なかなか不都合なものも、実際には、たくさんあるのではないか、ということなのです。
それでは、いっけん、非常に説得力のある、こうした何でも二つの側面に分けてゆくような「陰陽説」の、いったい、どこに問題があるのか、というと、次のような、大きく二つのことが言えます。
①世の中の実態を見ると、そうは簡単に、何でも「陰」や「陽」などと、単純に二つに分けられるものではなく、「いったい、何を基準に分けるか」、ということによって、「陰」にも、「陽」にも、どちらにも分類されるようなものが、たくさんあるものである
まず第一には、これは、今日の現代人が、普通に感じているような、「ゼロという存在は、本当は、存在していない」、ということを述べた時に言ったことと、基本的に、全く同じような物の見方になるのですが、要するに、現実の世の中というのは、そうは、簡単に、何でも二つに分けて、考えればいい、というほど、単純なものではない、ということです。
例えば、「陽」と「陰」を表す代表的な要素である、「明るい」と「暗い」、とか、「暖かい」と「冷たい」、という概念を例にとると、確かに、中国や日本の辺りの地域では、「昼は明るく、夜は暗い」、とか、「夏は暑く、冬は寒い」、というようなことは言えるのですが、それでは、そうした中国の人々が、最近、流行りの観光旅行で(らしいですね・・・)、赤道直下のインドネシアやインドやアフリカの辺りに行ったとすると、おそらく、「中国の昼は、明るいとは思ったが、やっぱり、赤道直下の国の真夏の太陽は、中国以上に、ものすごく明るい」、と言うでしょうし、また、その反対に、例えば、今度は、北極圏のロシアや北欧の国々に行ったとすると、おそらく、「中国の冬は寒いと思ったが、ロシアや北欧の冬に比べれば、まだ、全然、暖かいと思った」、などというように、はっきり言うと、「陽」と「陰」を表す、代表的な要素である、「明るい」と「暗い」、とか、「暖かい」と「冷たい」、といった概念というのは、要は、いったい、何を基準にして、「明るい」と「暗い」、とか、「暖かい」と「冷たい」、ということを決めるのか、ということによって、例えば、ある人が、単純に「明るい」と思えるものが、別のある人から見ると、全然、「暗い」と感じられる、とか、また、ある人が、「暗い」と感じるものが、別のある人から見ると、全然、「明るい」と感じられる、などというように、結構、その結果や感じ方が、全く異なることになってしまうものなのです。
つまり、本当は、物事というのは、そう単純に、「陰」とか、「陽」などと、何でも二つに分類できるものではなくて、「ある基準から見たら、これは、陽、ポジティブに判断されるけれども、ある基準から見たら、これは、陰、ネガティブであると判断される」、とか、「だけど、別のある基準から見たら、これは、陰、ネガティブであると判断されるけれども、さらに別のある基準から見たら、これは、陽、ポジティブであると判断される」、などというように、要するに、人間の仕事や生活上の、いろいろな都合のために、その時々に必要な、一定の基準を定めた際に、そのある基準を上回っていたら、「陽」、とか、「上」、とか、「右」、とか、「良い」、とか、「危険」、などと判断する、とか、また、そのある基準を下回っていたら、「陰」、とか、「下」、とか、「左」、とか、「悪い」、とか、「安全」、などと判断しているだけで、本当は、いったい、どのような基準を定めるか、あるいは、変更するか、ということによって、どんなものであっても、「陽」とも、「陰」とも、どちらとも言えるようなところがあるのではないか、ということなのです。
※「陰陽説」というと、たいていの人は、すぐに、白と黒が、くるくると回っている、有名な「陰陽説」のシンボルを思い出す人が多いと思うのですが、これは、デザイナーの方は、よく知っていると思うのですが、同じ「白」と言っても、完全な白色なんてなくて、少し灰色がかった白、とか、光沢がかった白、とか、つや消しの白、とか、黄色や青色が、少し混ざった白、などというように、結構、たくさんの種類の白色があるし、また、同じ「黒」といっても、完全な黒色なんて、本当はなくて、薄い黒色、とか、少し茶色がかった黒、とか、光沢のある黒、とか、つや消しの黒、などというように、結構、たくさんの種類の黒色があるものなので、本当は、単純に、世の中は、白黒に分けられるものなのではなくて、「白の中にも、いろいろな白があるし、また、黒の中にも、いろいろな黒がある」、というのが、世の中の真実なのではないでしょうか(これは、光と闇についても、ほとんど同じようなことが言えます)。
Cecye(セスィエ)