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「陰陽説」について Part 2

②「陰」と「陽」や、「善」と「悪」、それから、「正解」と「間違い」というような形で、何でも二つに分類して、満足するような精神生活をしていると、いつの間にか、常に物事を、あまり明るく、幸福に、創造的に考えられないような、非常に機械的で、硬直化した、不幸な精神状態に陥る人々が、数多く増えてゆくような社会的傾向があるので、注意が必要である

 第二には、これは、もう少しややこしい物の見方になってくるのですが、実は、人間の考え方、というか、認識力には、非常に大きな欠陥があって、たいていの多くの人々というのは、実際の物事の様子(現場とも言いますが)を見なくても、何か言葉で、はっきりとした断定をされると、それだけで、何となく、それが、あたかも真実であるかのように、わりと単純に信じ込んでしまうような、妙な特性があるようなのです。

 それゆえ、こうした「陰陽説」のような、何でも二つの要素に分けて、考えてゆくような、わりと単純な「二元論」のような考え方を受け入れてしまうと、たいていの多くの人々は、その段階で、もう思考停止してしまい、全然、深く考えなくなってしまうようなところがあるので、その結果、非常に不思議なことに、なぜか、その後、もう一度、深く物事を調べ直して、冷静に考え直す、とか、いろいろと努力、工夫して、新たに、何かを創造してゆく、とか、あるいは、肉体的精神的に無理をせずに、自然体の態度で、幸福に生きてゆくようなこと自体を、何となく無意識のうちに避けるようになって、わりと機械的な硬直化した考え方であるとか、何でも物事を、ものすごく難しく考えて、無表情で、あまり深く考えない、感じないような精神状態に陥ってゆくことが、非常に多いようなのです。

 これは、現代の地球人は、まだ、ほとんど気付いていない指摘になると思われるのですが、実は、「善」と「悪」でも、あるいは、「陰」と「陽」でも、さらには、いわゆる、学校教育における「正解」と「間違い」でも、はっきり言って、ほとんど同じなのですが、人間というのは、物事を理解し、判断する際に、何でも、わりと極端な違いを持つような、「良いこと」と「悪いこと」、とか、「明るいこと」と「暗いこと」、とか、「合っていること」と「間違っていること」、などというような、対称的な二つの概念に、しっかりと分類する、とか、あるいは、そうした二つの対称的な概念の中から、より適切と思われるような一つを選び取る、というような思考訓練を、たくさんやらされていると、そのうち、「自分自身は、本心では、いったい、何を感じたり、思ったりしているのか」、とか、「自分が、本当は、何をやりたいのか、やりたくないのか」、というような人間的な感覚や判断力というのが、だんだん衰えてきてしまい、気がつくと、「常に悪いことは避けて、良いことを選んでいるつもりなのだが、いつも能面づらで、ほとんど幸福感というのは、感じたことがない」、とか、「常に、陰陽の調和を心掛けているつもりなのだが、気がつくと、いつも無感覚で、心からの至福というのは、ほとんど感じたことがない」、とか、「自分としては、常に、間違いを避けて、最も正しい正解を選んできたつもりなのだが、気がつくと、いつも画一的で、ワンパターンの考え方や行動ばかりになって、自分の幸福も、また、相手のことも、全然、考えないような、機械的な仕事ばかりするようになってしまっている」、などというように、いっけん、人間としては、非常に優秀で、それほど間違いも犯さないのだが、それでは、人間的に見て、「本当に幸福なのか」、というと、はっきり言うと、そうした人間的な幸福感というのは、ほとんど感じたことがない、というような、非常に不思議な、非人間的人間、というか、ある種の機械存在的人間にさせられてしまうようなところがあるのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2012年5月26日 9:03 PM, 中国思想 / 宗教、道徳 / 教育



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