たいていの宗教が、一生懸命否定してくる、この世的な要素とは、その時代や、その国や地域において、多くの人々が、最も不平不満や不自由を感じていた内容であることが多い
さて、このように宗教というものを、かなり客観的に、まるで他人事のように見てゆくと、次には、いったい何が分かるのか、というと、これを言ってしまうと、ほとんど宗教は終わりなのではないか、と思われるような内容があるのですが、今述べたような観点から見ると、実は多くの人々が、「あの宗教」、「この宗教」という具合に、まるで完全に別の宗教のように感じているたくさんの宗教というものが、現在の世界の感覚で喩えて言うと、まるでトヨタやGMやメルセデス・ベンツといった世界中のたくさんの車メーカーとほとんど同じような扱いでもって、「あのメーカーのあの車には、こんな良さがあるけれども、こんな欠点もある」とか、「別のあのメーカーの車は、ちょっと高いのだが、普通の車にはない、こんな良さがある」とか、「このメーカーのこの車は、とにかく安くて、燃費がいいので、あまり給料取りではない自分には最高だ」などという具合に、「どれが正しくて、どれが間違っている」とか、「どれが一番で、どれが悪魔だ」というような視点ではなく、単に「この宗教のこの点は良いのだが、この点は今ひとつだ」とか、「この宗教は、初心者には良いが、精神的な玄人のような人には、今一退屈だ」とか、「この宗教は修行は、とても簡単なのだが、本当の効果は、かなり疑わしいのではないか」などという具合に、はっきり言うと、それぞれの宗教の信仰を、まるでたくさんの自動車メーカーの中の、単なる車の車種のような感覚で捉えられるようになってくるということなのです。
たいていの宗教で否定してくる、この世的な要素と、その反対の夢や理想の具体例について
これは具体例を出さないと、分かりづらいと思うので、少し具体例をあげて、説明してゆきたいと思います。
先ほどあげた宗教の要素から考えて、説明してゆくと、たいていの宗教というのは、まず最初にこの世の常識、あるいは、この世そのものを否定した後に、それとは全く正反対の多くの人々が、わりと素直に共感しやすいような何らかの夢や理想を提示することが多いのですが、その代表的な例としては、大体、12ぐらいあります。
1、この世が、戦争や混乱だらけの場合には、戦争や混乱だらけの世界を否定して、とにかく平和な安定した世界がいい、というようなケースになります。
2、この世で病気や怪我が多い場合には、そうした病気や怪我の多い世界を否定して、健康な世界がいい、というケースになります。
3、この世で悪い王様や悪い政治がはびこっている場合には、悪い王様や悪い政治家のいる世界を否定して、とにかく、ものすごく善良な良い政治家がいて、良い政治の行われている世界がいい、というケースになります。
4、この世で泥棒や暴力のような犯罪が多くて、住みづらい場合には、そうした泥棒や暴力のような犯罪を否定して、犯罪の少ない世界がいい、というケースになります。
5、この世において、人口の大多数が、農民や商人になっているなどというように多くの人々の生活が、あまりにも同じように均質化しすぎていて、つまらない世界の場合には、そうした不自由で均質化しすぎた世界を否定して、一人一人の人間が、とにかく自由に、いろいろなことができる自由な世界がいい、というケースになります。
6、この世では、みんなが貧しくて、日々食べるのに苦労しているような場合には、そうした多くの人々が貧しく、飢えるような世界を否定して、とにかく、みんなが毎日、おいしいものを、お腹いっぱい食べれるような豊かで繁栄している世界がいい、というケースになります。
7、この世では、いろいろな法律や決まりが多くて、ものすごく不自由で大変な場合には、そうした法律や決まりを否定して、そうした法律や決まりの少ない、できるだけフリーな世界がいい、というケースになります。
8、この世では、性道徳が、あまりにも厳しすぎて、多くの人々の性的な欲望が全く実現できない場合には、そうした厳しい性道徳を否定して、いつも裸で過ごせるとか、わりとフリーなセックス観のあるような世界がいい、というケースになります(その反対に、この世で性道徳が、あまりにも乱れて、多くの人々が困っているような場合には、わりときちんとした純愛的な結婚ができる世界がいい、ということになります)。
9、この世では、どこもかしこも、くすんだ変な色やデザインの汚い所ばかりだ、という場合には、そうした汚い、汚(よご)れた世界を否定して、とにかく、きれいで荘厳で美しい世界がいい、というケースになります。
10、この世では、自分の望むような学問も仕事も何もできない、という場合には、そうした学問や仕事が、自由にできないような世界を否定して、とにかく素晴らしい勉強ができて、まるで天人のような素晴らしい仕事のできる世界がいい、というケースになります。
11、この世では、自分の望んだことが、ほとんど何も実現できない場合には、そうした不自由極まりない世界を否定して、自分の望んだことが、何でもできるような非常に豊富な自己実現の選択肢のある世界がいい、というケースになります。
12、この世では、男尊女卑や身分制が厳しくて、多くの人々が、もうほとほと嫌気が刺しているような場合には、そうした男尊女卑や身分制の世界を否定して、男も女も、大人も子供も、王様も平民も、みんな同じ平等に暮らせるような平等な世界がいい、というケースになります。
などとあげることができるのですが、要は、こうした宗教におけるこの世の常識や、この世そのものの否定というのは、何のことはない、その時点において、多くの人々が、非常に不平不満を感じていたり、非常に不自由を感じていたりすることを、いろいろな理由をつけて、大否定してくることが多いということなのです。
多くの人々の単純な思い込みとは、かなり違って、どんなに、いっけん正当そうで歴史のある宗教であっても、時代の変化と共に、その宗教において、最も否定しているこの世的な要素というのは、どんどん大きく移り変わってゆくものである
ただ、これはみなさん、あまり考えたことがないような内容になるのではないか、と思うのですが、このような視点で見ると、現在ある有名な宗教というのは、一つの宗教として、ずっと同じ、この世の要素を否定していたのではなくて、その時代時代の状況や、多くの人々の感覚の変化に合わせて、ある時代には、戦乱の否定をしていたかと思うと、ある時代には、今度は、何らかの理由で平和そのものを否定していることがあったり、また、ある時代には、悪い国王はダメだと言っていたのに、ある時代には、独裁体制を強く肯定していたり、それから、ある時代には、散々自由主義を否定していたのに、現代のような時代になると、今度は、自由主義をものすごく礼賛していたりするなどというように、実は、たいてい歴史の長い宗教というのは、多くの人々の単純な思い込みとは、かなり違って、その時代ごとに、その時代の人々の不平不満や要望を、できるだけ完全に満たす形で、この世における、いったい何を否定するのかとか、その反対に多くの人々のどんな理想や要望を、その宗教の旗印にするのか、ということを、結構、何度も何度もコロコロ変え続けてきたようなところがあるということなのです。
Cecye(セスィエ)