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宗教選びの五つの要素について Part 3

たいていの宗教が、一生懸命、否定してくる、この世的な要素とは、その時代や、その国や地域において、多くの人々が、最も不平不満や不自由を感じていた内容であることが多い

 さて、このように、宗教というものを、かなり客観的に、まるで他人事のように見てゆくと、次には、いったい、何が分かるのか、というと、これを言ってしまうと、ほとんど宗教は、終わりなのではないか、と思われるような内容があるのですが、今述べたような観点から見ると、実は、多くの人々が、「あの宗教」、「この宗教」、という具合に、まるで完全に別の宗教のように感じている、たくさんの宗教というものが、現在の世界の感覚で喩えて言うと、まるで、トヨタやGMや、メルセデス・ベンツといった、世界中のたくさんの車メーカーとほとんど同じような扱いでもって、「あのメーカーのあの車には、こんな良さがあるけれども、こんな欠点もある」、とか、「別のあのメーカーの車は、ちょっと高いのだが、普通の車にはない、こんな良さがある」、とか、「このメーカーのこの車は、とにかく、安くて、燃費がいいので、あまり給料取りではない、自分には、最高だ」、などという具合に、「どれが、正しくて、どれが間違っている」、とか、「どれが一番で、どれが悪魔だ」、というような視点ではなく、単に、「この宗教のこの点は、良いのだが、この点は、今ひとつだ」、とか、「この宗教は、初心者には良いが、精神的な玄人のような人には、今一、退屈だ」、とか、「この宗教は、修行は、とても簡単なのだが、本当の効果は、かなり疑わしいのではないか」、などという具合に、はっきり言うと、それぞれの宗教の信仰を、まるで、たくさんの自動車メーカーの中の、単なる車の車種のような感覚で捉えられるようになってくる、ということなのです。

 

たいていの宗教で否定してくる、この世的な要素と、その反対の、夢や理想の具体例について

 これは、具体例を出さないと、分かりづらいと思うので、少し具体例をあげて、説明してゆきたいと思います。

 先ほどあげた、宗教の要素から考えて、説明してゆくと、、たいていの宗教というのは、まず最初に、この世の常識、あるいは、この世そのものを否定した後に、それとは、全く正反対の、多くの人々が、わりと素直に共感しやすいような、何らかの夢や理想を提示することが多い、ということなのですが、その代表的な例としては、大体、12ぐらいあります。

1、この世が、戦争や混乱だらけの場合には、戦争や混乱だらけの世界を否定して、とにかく、平和な安定した世界がいい、というようなケースになります。

2、この世で、病気や怪我が多い場合には、そうした病気や怪我の多い世界を否定して、健康な世界がいい、というケースになります。

3、この世で、悪い王様や悪い政治がはびこっている場合には、悪い王様や悪い政治家のいる世界を否定して、とにかく、ものすごく善良な、いい政治家がいて、良い政治の行われている世界がいい、というケースになります。

4、この世で、泥棒や暴力のような犯罪が多くて、住みづらい場合には、そうした泥棒や暴力のような犯罪を否定して、犯罪の少ない世界がいい、というケースになります。

5、この世において、人口の大多数が、農民や商人になっている、などというように、多くの人々の生活が、あまりにも同じように均質化しすぎていて、つまらない世界の場合には、そうした不自由で均質化しすぎた世界を否定して、一人一人の人間が、とにかく自由に、いろいろなことができる自由な世界がいい、というケースになります。

6、この世では、みんなが貧しくて、日々、食べるのに苦労しているような場合には、そうした多くの人々が貧しく、飢えるような世界を否定して、とにかく、みんなが、毎日、おいしいものを、お腹いっぱい食べれるような、豊かで繁栄している世界がいい、というケースになります。

7、この世では、いろいろな法律や決まりが多くて、ものすごく不自由で大変な場合には、そうした法律や決まりを否定して、そうした法律や決まりの少ない、できるだけ、フリーな世界がいい、というケースになります。

8、この世では、性道徳が、あまりにも厳しすぎて、多くの人々の性的な欲望が、全く実現できない、という場合には、そうした厳しい性道徳を否定して、いつも裸で過ごせる、とか、わりとフリーなセックス観のあるような世界がいい、というケースになります(その反対に、この世で、性道徳が、あまりにも乱れて、多くの人々が困っているような場合には、わりと、きちんとした純愛的な結婚ができる世界がいい、ということになります)。

9、この世では、どこもかしこも、くすんだ変な色やデザインの汚い所ばかりだ、という場合には、そうした汚い、汚(よご)れた世界を否定して、とにかく、きれいで、荘厳で、美しい世界がいい、というケースになります。

10、この世では、自分の望むような学問も仕事も、何もできない、という場合には、そうした学問や仕事が、自由にできないような世界を否定して、とにかく、素晴らしい勉強ができて、まるで天人のような、素晴らしい仕事のできる世界がいい、というケースになります。

11、この世では、自分の望んだことが、ほとんど何も実現できない場合には、そうした不自由極まりない世界を否定して、自分の望んだことが、何でもできるような、非常に豊富な自己実現の選択肢のある世界がいい、というケースになります。

12、この世では、男尊女卑や身分制が厳しくて、多くの人々が、もうほとほと嫌気が刺しているような場合には、そうした男尊女卑や身分制の世界を否定して、男も女も、大人も子供も、王様も平民も、みんな同じ平等に暮らせるような、平等な世界がいい、というケースになります。

 などとあげることができるのですが、要は、こうした宗教における、この世の常識や、この世そのものの否定というのは、何のことはない、その時点において、多くの人々が、非常に不平不満を感じていたり、非常に不自由を感じていたりすることを、いろいろな理由をつけて、大否定してくることが多い、ということなのです。

 

多くの人々の単純な思い込みとは、かなり違って、どんなに、いっけん、正当そうで、歴史のある宗教であっても、時代の変化と共に、その宗教において、最も否定している、この世的な要素というのは、どんどん大きく移り変わってゆくものである

 ただ、これは、みなさん、あまり考えたことがないような内容になるのではないか、と思うのですが、このような視点で見ると、現在ある、有名な宗教というのは、一つの宗教として、ずっと同じ、この世の要素を否定していたのではなくて、その時代時代の状況や、多くの人々の感覚の変化に合わせて、ある時代には、戦乱の否定をしていたかと思うと、ある時代には、今度は、何らかの理由で、平和そのものを否定していることがあったり、また、ある時代には、悪い国王は、ダメだと言っていたのに、ある時代には、独裁体制を強く肯定していたり、それから、ある時代には、散々、自由主義を否定していたのに、現代のような時代になると、今度は、自由主義を、ものすごく礼賛していたりする、などというように、実は、たいてい、歴史の長い宗教というのは、多くの人々の単純な思い込みとは、かなり違って、その時代ごとに、その時代の人々の不平不満や要望を、できるだけ完全に満たす形で、この世における、いったい、何を否定するのか、とか、その反対に、多くの人々の、どんな理想や要望を、その宗教の旗印にするのか、ということを、結構、何度も何度も、コロコロ変え続けてきたようなところがある、ということなのです。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年10月21日 9:21 PM, コラム / 人生観、世界観



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