第三には、これは、いっけん人間としては、最も当たり前そうに感じられるような内容であるにも関わらず、多くの人々があまり真剣に考えないような内容なのではないかと思われるような内容になるのですが、霊的、物質的に見た「光」とは何を表すのか、ということを具体的に考えてみると、これは個人としても、また多くの人々の集合体の社会としても、どう考えてみても「幸福の実現」以外の何者でもないのではないか、ということになってくるのです。
現在の地球における三つの主要な幸福観について
それでは幸福とは、いったい何なのかということを考えてみると、これはいろいろな見方や考え方があるので、とてもではないが一言では、そう簡単に言い切れないようなところがあるのですが、私は多くの人々の感じ方や考え方を観察してみるに、どうも現在の地球では、次のような三つのことを「幸福」と呼んでいるのではないか、というように考えております。
まず第一には、これは現在の地球では、まだまだ非常に根深く強い幸福観(よく考えてみると、どうも私の造語のようですが、幸福についての見方や考え方のことです)なのではないかと思われる内容になるのですが、とにもかくにも「お腹がすいていない」とか、「寒くない」とか、「暑くない」とか、「体が痛くない」とか、「今、辛い思いをしていない」というような状態のこと、つまり言葉を変えると肉体的、あるいは精神的に、今、自分は、少なくとも苦痛や悲しみの状態ではない、つまり不幸ではないということを「幸福」と呼んでいるケースが非常にたくさんあるということです。
第二には、これも現在の地球では、まだ根深く強くある幸福観なのではないかと思われる内容なのですが、外国や、よその地域とか、近所の家の誰かと比べて、少なくとも「今の自分は、それほどお腹を減らしていない」とか、「貧しくない」とか、「もう少し良い物を着ている」とか、「もう少し良い家に住んでいる」とか、「少しは勉強ができる」とか、「少しは良い会社に勤めて、豊かな生活をしている」などというように、要するに自分自身と他の誰かと比べた際に、少なくとも現在の自分は、それほど不幸ではない、もしくは、もう少しまともな良い生活をしているということをもって、自分自身の幸福と感じるというような幸福感の感覚になります。
第三には、これも結構、根深く強い幸福観として認知されているような内容になるのですが、要は「食べたり、飲んだりして、楽しかった」とか、「映画などを見て、ハラハラドキドキして楽しかった」とか、「素敵な洋服が買えて楽しかった」とか、「素敵な彼氏(彼女)と過ごせて楽しかった」とか、「遊園地やテーマパークなどで遊べて楽しかった」などというような幸福感になってくるのですが、これは言ってみれば、物質的、あるいは精神的な充足感や満足感が満たされることをもって幸福であると言っているようなケースになります。
さて、こうした三つの幸福観というのは、現在の地球では非常にメジャーな幸福観なのではないかと私は思うのですが、ところが、ここで非常に重要な分岐点というか、チェックポイントのようなものがあるのですが、それはいったいどのような内容なのかというと、「それでは、あなたは自分自身の意思でもって、どれくらい主体的に、そうした幸福な体験をするように心掛けていますか?」というような質問になってくるのです。
Cecye(セスィエ)