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千年、二千年前の中国の古語に当たる「漢文」は、努力のわりに、実用性の全くない、不必要な勉強の代表格の一つである Part 2

3、最先端の知識や技術は、みんな中国や朝鮮から来る、というような江戸時代以前の時代であれば、漢文は、立派な実用的な学問と言えたのだろうが、現代では、いくら、千年前、二千年前の漢文をやったところで、実用性は、全くないので、それくらいなら、今後の中国の繁栄に便乗して、日本が、もっともっと繁栄してゆけるように、現代の中国語の学習を、義務教育の段階でも、やりたい人は、自由にできるような学習環境を整えていった方が、よほどよいのではないか

 第三には、これは、今も少し述べたのですが、もし、現代の日本における実学の観点で、漢文のようなものを教えたい、ということであれば、現時点において、ほとんど実用性のない漢字の古語(現代では使われていないので、もっと正確に言うと、「死語」)による漢文を教えるのではなくて、もうそのまま、現代の中国人とコミュニケーションできる、現代の中国語を、やりたい人は、いつでも自由に学べるような学習環境に整えた方が、よほど良いのではないか、というように、私は感じております。

 それというのは、今でこそ、まだ日本の政府や企業が、いろいろな面で、中国を援助することが多いのですが、これは、歴史の趨勢(すうせい)からは、ほぼ完全に推測される未来の内容になるのですが、せいぜい、あと数年から、数十年するうちには、こうした日本と中国の関係が逆転するのは、もうほとんど時間の問題になっている、ということなのです。

 その理由は、とても簡単なのですが、アジアの歴史を見る限り、日本と中国が、ほとんど同じような国家運営の手法を行っている場合には、何と言っても、日本は、アジアの片隅に位置している小国であるのに対して、中国は、東アジアの中心のような場所に位置する大国であるために、歴史的には、常に中国の方が、政治的にも、軍事的にも、経済的にも、また、文化的にも、アジアの中心的な役割を果たし、その片隅で、日本は、そうした中国の保護国のような位置づけになったり、あるいは、半分、独立国のような位置づけになったり、というような歴史を、これまで数千年の間、ずっと繰り返してきたからであるのです(日本史だと、こういう見方は、あまりはっきりと教えないのですが、世界史、もしくは、中国史的に見ると、そのような見方になります)。

 そうした歴史の趨勢から判断する限り、確かに、ここ数十年においては、経済や科学技術の面では、日本の方が、中国よりも、ずっと上、というような状況になっていたのですが、みなさんも、よくご存知のように、現在の中国は、日本と同じような、欧米路線の改革開放政策を、どんどん進めている最中であるので、それゆえ、確かに、さまざまな問題を抱えているのは、事実であるのですが、ただ、中長期的に見ると、そうした欧米的な改革開放路線を進めてゆく限り、どこかの段階で、数百年前の中国のように、政治的にも、軍事的にも、経済的にも、また、文化的にも、アジアを代表する大国は、中国と呼ばれるような時代に、再び、戻ってゆく可能性が、非常に高い、ということなのです。

 こうした現在の状況においては、何も「中国の繁栄の結果、日本は、衰退の一途をたどった」なんて、未来にするのではなく、そうした「中国の繁栄の結果、日本も一緒に繁栄した」というような未来にするためには、「漢字を見るだけで、もう嫌になってくる」、というような漢字教育ではなくて、もう思い切って、特に中国の古語(もしくは、死語)に当たる漢文は、興味のある人だけが、好きにやればいいことにして、その代わり、もう十代ぐらいのうちから、現代の中国語がやりたい人は、義務学校の延長線で、いくらでも自由にやらせてあげる、というような中国語教育の方向に、大きく変更した方が、私は、ずっと良いのではないか、というように感じているのです。

 もう少し具体的に言うと、もう少し先になると、現代以上に、中国人が、大観光ブームを迎えて、もっと大勢、日本にやってくるようになる可能性が高いのですが、その際に、多くの日本人が、現代の中国語が話せるようになっていると、そうしたビジネスチャンスを、もっと活かせるようになる、とか、あるいは、現在以上に、日本のいろいろな物を、中国人に売り込むことができる、などというように、現代の中国語を学ぶと、結構、日本という国全体や地域としても、また、個人としても(つまり、仕事の口が増えるということです)、わりと、すぐに役に立つような効果があるのですが、ところが、これが、千年、二千前の中国語に当たるような漢文をいくら覚えたところで、こんな効果は、全くない、ということなのです。

 

明治時代や大正時代における、文明開化の荒波の中で、国家や国民の結束やアイデンティティーの維持のために、全国民一律の、昔の古文や漢文の学習を推奨したことは、分からないでもないが、国際化が当たり前の現代のような時代には、もうそうした古代や中世の古語(もしくは、死語)に当たる古文や漢文の学習は、そうした歴史を研究する一部の専門家だけが行えば、それで十分である

 こうした観点から考える限り、もう江戸時代でもなければ、明治、大正の時代のように、文明開化、つまり、社会全体の急激な西洋化の荒波の中で、国家や国民の結束やアイデンティティーを、何とか維持するために、昔からの武士や貴族の思想や教養の根幹に当たるような古文や漢文を、全国民に学ばせるような必要性は、現在のような時代には、もう全く不必要になってきているので、それゆえ、私は、現代のような時代においては、努力のわりには、ほとんど実用性が皆無の、現在のような古文や漢文の勉強は、せいぜい、そうした古代や中世の中国や日本の様子を研究したいと思うような一部の学者や研究者だけが、必要に応じて、学習して、マスターすれば、それで十分なのではないか、というように率直に考えております。

 

Cecye(セスィエ)

2011年6月8日 9:27 PM, 教育



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