④この世界には、完全な聖人もいなければ、完全な悪人もいないので、どの人や団体に関しても、単純にオール・オア・ナッシングで見ないで、一定の期間ごとのそれぞれの仕事について、それが、光の勢力に分類されるか、闇の勢力に分類されるか、というように、冷静に個別に判断した方が、賢明である
第四には、これも、少し難しい論点になるのですが、前にも少し述べたのですが、基本的に、この物質世界というのは、正世界の要素も、反世界の要素も、複雑にミックスされた中世界のようなところであるので、それゆえ、これは、霊的には、完全に、はっきりしていることであるのですが、この物質世界においては、霊的に罪汚れなく、完全に清い人間なんて、一人もいないし、また、その反対に、霊的に堕落した、完全な悪人というのも、本当は、一人もいない、ということなのです。
つまり、どんな人であっても、長い目で見れば、良いことばかりでなく、その時々の勢いや必要に迫られて、社会的に悪いとされていることであっても、どうしても、やらざるを得なくなってしまうようなことが、必ず、あったはずである、ということを、これは意味しているのですが、こうした観点から見ると、実は、「この人は、光の勢力だから、絶対に良い人」、とか、「この人は、闇の勢力だから、絶対に悪い人」、というのが、基本的には、あまりはっきりと明確に分けられないようなところがある、ということなのです。
そうすると、どのような目で、そうした光の勢力か、闇の勢力か、ということを、うまく見分けてゆけばよいのか、というと、これは、ちょっと難しい要素があるのですが、簡単に言うと、世の中を見る時に、単純に、白か、黒か、とか、100点か、0点か、というような目で見ないで、よくよく冷静に調べてから、「この人の、この行為については、20点だけど、この行為については、90点かな」、とか、「この人のここまでの仕事ぶりは、ほとんど100点だけど、この時期からの仕事は、もう30点ぐらいしか、つけられないかな」、などというように、「この点については、評価できるけれど、この点については、ダメだと思う」、とか、「この時期の仕事ぶりまでは、とても良いと思うけれど、この時期からの仕事は、全然、ダメかな」、などというように、その人物の仕事の内訳や、時期的なものも、しっかり考慮して、評価できる内容と、評価できない内容を、しっかりとよく分類して、理解しておく必要があるのではないか、ということなのです。
そうした観点に立つと、その人や、その団体が、光か、闇か、つまり、白か、黒か、とか、100点か、0点か、というような、単純なオール・オア・ナッシングの視点ではなくて、白とも黒とも言いがたい、あるいは、100点とも、0点とも言いがたいような、はっきり言うと、光とも闇とも、そのどちらとも取れるような、少し訳の分からない評価になってくることが、非常に多いのではないか、と思うのですが、そのような形で、単純に善悪を決めずに、それぞれの行動について、よくよく自分の頭を使って、しっかり判断できる、ということが、ある意味で、アセンションした五次元以上の光の世界での必須の能力になっている、ということなのです。
それというのは、実は、これまでの非常に長い光と闇の時代においては、そうした時に、白か、黒か、とか、あるいは、善か、悪か、ということを、単純に決めつけて、何でも、すぐ分かったような気分になってしまっていたような人というのは、なかなか、この物質世界の複雑極まりない輪廻の過程から出てこれずに、その人にとって、天国や地獄と信じる霊界(もっと正確に言うと、一種の疑似霊界のような世界)と、地上の世界の間を、ずっと行ったり来たりしながら、地上の世界に、何度も何度も、繰り返し、生まれ変わらざるを得なくなるような、結構、大変な霊的状況に陥ることが、非常に多かったからなのです(あまり深く考えずに、「これは良い」、「これは、悪い」、などと、簡単に断定するような態度をとると、何となく、自分の体が、より硬く物質的な存在になってしまう気がしませんか?)。
このように、今後のアセンションした世界においては、何でも単純素朴に、それが、良いか、悪いか、ということを、すぐに断定するような精神態度ではなく、どの人物や団体に関しても、その人や、その団体の仕事の内訳や、時期的なものも、十分、考慮した上で、「この人の、この仕事は、素晴らしいが、この人の、この仕事は、今一かな」、とか、「この人の、この時期の仕事は、全然、ダメだけど、この時期の仕事は、本当に素晴らしい」、などというように、ある程度、冷静に、自分自身の頭を使って、整理して、考えながら、理解し、判断してゆくことが、非常に重要なのではないか、ということなのです。
Cecye(セスィエ)