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霊界の真相 Part 24

⑤どの宗教も長い年月を経るうちに、本当の神仏を信じる宗教というよりも、「神仏」という看板を掲げて、宗教的生活を推奨する営利団体のような中身に実質的にすり替わってしまうことが多かった

 それから第五には、これは霊的には、非常に問題が多いのですが、長い年月を経て、こうした経過を経てきた宗教というのは、そのうち、そうした宗教の権威付けや維持のために次のような三つの教え、というか、信仰のようなものを、やがて、ほとんど学問のような形で多くの信者の人達に対して、堂々と教えるようになってゆくということです。

 その三つの教えとは、まず第一には、その宗教の真髄を理解するには、教えを考えるのではなく、とにかく疑わずに信じることが一番重要なのだということと、第二には、信者の人達は、自分で一生懸命、努力するのではなく、そこの神仏や教祖を信じて、ひたすら従順に付き従ってゆけばよいのだということと、それから第三には、神仏や教祖の考えを理解するのではなく、目の前にある神仏の絵や像をひたすら拝んだり、あるいは、そこの戒律や修行を忠実に守り抜くことの方が遥かに重要なのだというような三つの内容になってくるのですが、しかしながら、これは言葉を変えると、「神仏のことを何も考えずに、ひたすらボーとして信じていてくれるだけならいいけれども、いちいち、いろいろ細かく考えたり、疑われたりされたら大変だ」とか、「いちいち素朴な疑問を聞かれたり、勝手なことをされていたら教団が持たないので、できれば小さい頃から、しっかり教え込むようにしておいて、一生、一切反抗せずに何でも素直に言うことを聞いてくれるのが一番いい」とか、「神仏の心そのものや、祖師の考えていることを、誰でも自由に推測して、自由に発言してよいというような教団の運営をしていたら、とてもではないが教団が持たないので、とにもかくにも神仏の絵や像に向かって、何も考えずにひたすら拝むような生活をさせておくか、もしくは、暇な時間がないように厳しい戒律や修行を与えて、それで何も考えずに時間を潰してもらっていた方が、よっぽどいい」などというようなことであったのです。

 つまり、こうした宗教の運営をしていると、どんな宗教であっても、どこかの時点で本当の神仏を信仰する宗教というよりも、「本当の神仏」という看板を掲げた宗教的生活を推奨する一種の営利団体のような中身に、実質的にすり替わっていってしまうことが非常に多かったのです。

 

どんなに優れた宗教であっても、単なる人間集団である以上、長い年月を経るうちに、神仏の偉大さや功徳や、悪魔や魔王の怖さや邪悪さというものは、どんどん拡大解釈され、誇大表現されるようになってゆくものである

 このようにたとえ、どんなに優れた宗教であったとしても、それが単なる人間の集団である以上は、長い年月を経るうちに、いつの間にか元々の話とはかなり違った、かなり誇大表現された「神仏」の話であるとか、あるいは、これも元々の話とは、かなり違った誇大表現された「悪魔」の話がどんどん増えてゆくと共に、その信仰や教えや修行の内容においても、元々のオリジナルのものと比べると、かなりお粗末、というか、もっとはっきり言うと、ほとんど詐欺まがいのインチキの内容なのではないか、と思われるようなものが、どんどん増えてゆくような傾向性があるのです。

 このような観点から見る限り、巷の宗教における神仏の話も、また悪魔や魔王の話も、はっきり言って、本当の事実とはかなりかけ離れた、というか、もっとはっきり言うと全く異なる話に、ほぼ完全にすり替わってしまっているのではないか、というように私は率直に考えております。

 

 続く・・・

 

Cecye(セスィエ)

2011年1月21日 9:31 PM, スピリチュアリズム、霊界 / 宗教、道徳 / 社会、文化



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